TOG 見えない景色


「戦って……いるね、みんな」



 僕の隣で、そんな呟きが聞こえた。


 横を見れば、わずかな距離をも塗りつぶす降雪の向こうに揺れる、クロソフィの色の髪。
 ソフィが、確かに皆が魔物と戦闘を繰り広げている方を見ていた。
 太目の枯れ木に、手がかりとするように、寄りかかって。

 僕はそんな彼女の、樹の幹につけていないほうの手を軽く握って、隣に立ってあげていた。
 あなたの傍には、僕がいますよ。
 きっと不安でたまらない彼女に、そう伝わるように。



「音で、分かるんですか」

「……うん。―――あっ、誰かが怪我をした……アスベル?」



 刺すように冷たい空気の中に、微かに血の匂いが混じったからだろう。ソフィは不安を抑えるように、眉を寄せて樹に寄りかかる手をきつく握り締めた。
 音だけでなく、きっと他の感覚も研ぎ澄ませて、やっと戦況を推測することができているのだろう。


 ―――――視覚が、ほとんど役に立たないから。


 まだ、ぼんやりと――先ほど、兄さんが大きく体勢を崩したこと等――は、見えているらしい。
 だけど、とても戦えるほどではない。ソフィのように機敏な格闘術で前線に出るのなら尚更だ。
 ソフィの目がこのようになってからは、戦闘になる度に、僕達は敵に全員でかかろうとはせず、ひとり、ソフィの傍に残して、4人で魔物を迎え撃つようにしていた。
 それは、ソフィが魔物を感知する度に戦いたそうに体を震わせるのを抑える意味もあったし、戦えない状態の彼女の護衛の意味もあった。


 僕はそんな役目を負って、今、ソフィの隣にいた。

 兄さんが怪我をしたまま、それを治す神聖術の詠唱に入ったシェリアを庇う様に立ち回っている。
 その役目を代わってやりたかったし、回復ならソフィが請け負いたいくらいだろう。
 だけど、今この場を離れた瞬間にソフィが進出鬼没の魔物に襲われないとも限らないし、ソフィの方も視覚情報がないと正確に術をかけるのは難しいということだった。―――それ以前に、視覚の事がなくても調子の悪そうなソフィに、無茶をさせてやるわけにはいかない。



「……ねえ、ヒューバート」

「なんでしょうか、ソフィ」

「ヒューバートは、目が悪いから、眼鏡をかけているんだよね」



 唐突に、なんだろうと思った。




 以前、どうして眼鏡をかけているのか、と、ソフィに聞かれたことがある。
 そのとき僕は普通に、目が悪いからだ、と答えると、彼女は僕の目は敵なのか、と問いかけてきた。
 一瞬、どういう飛躍だ、と驚いたが、正義との対比の意味で使われる“悪”を連想したらしいことに気がつくと、苦笑して、そのあと説明に困ってしまったので、皆で答えを考えたのだった。


“目が悪い”というのは、景色がぼんやり見えてしまう目の病気である。


 結局そんな結論に落ち着いたのだが、“病気”だなんてパスカルさんがつけ足したものだから、それ以来ソフィはしきりに僕の目のことを心配するようになってしまったのだが。
 ……心配させるのも心苦しいことなので、もちろん、そのあと、きちんと説明しなおした。


その病気を治して、景色をはっきり見えるようにする力が、眼鏡にはある。


 治す、というのは些か語弊がある―― 一時的な治癒に過ぎないのだから――が、ソフィにはそれで充分安心できたようだった。
 それ以後、目の事でとやかく言われたことはない。




 だから、久しぶりに眼鏡の事を話題にしたソフィを不思議に思った。
 あれで納得したのではなかったのだろうか……。



「わたしにも、予備の眼鏡ちょうだい」



 ……唐突だ。本当に、唐突すぎた。



「な、何故ですか。特に目に異常が無い人が眼鏡をかけると、逆に目が悪くなるという話も―――」

「異常なら、あるよ」



 え。
 ……この子は、本当に、唐突に何を言い出したのだろう。
 驚いて、思わず止まってしまっていた思考回路が再び動き出したとき、




「わたしも、目が悪くなったから」




 ハッとした。





―――“目が悪い”というのは、景色がぼんやり見えてしまう目の病気である。



―――みんなの顔が、だんだんぼんやりしていくの……。





 ああ。

 ああ………。




「ソフィ! 違うんです……」



 なんだかこみ上げてくるものがある。
 中途半端に知識を伝えてしまって、申し訳ないと思ったからだろうか?
 それとも―――




「あなたの目は、きっと、眼鏡では治りません―――」




 なにもできない自分が、腹立たしく思えたからだろうか。




 近眼によって失明することはありえる。
 失明が近眼用の眼鏡で改善されることは、ありえない。


 なんだか、気分がどうしようもないことになってきたので、
 僕は思わずソフィの顔を挟むようにそっと手を添えた。
 彼女の紫水晶の瞳――それが今は、霞がかかったように濁っていて。
 さらに落ち込むだけだったので、ソフィから視線を逸らして、また手をつなぎ直した。



「そっか。……フォドラに行かないと、治らないんだね、やっぱり」



 肩を落としたのが、つないだ手から伝わって、僕は顔をソフィの方に向き直した。
 彼女の肩が、降雪で少し白くなっていたので、空いている手で払ってやる。


 その手でそのまま、自分の眼鏡をそっと、外してみる。



(……何も見えない)



 いや、見えるのだ。

 ぼんやりと―――白い、世界だけが。


 そこでは、必死に戦う仲間達は、白の上で踊る1色の点でしか存在しないし、
 雪の積もった丘も木々も、輪郭のはっきりしない、のっぺりとした物体に成り下がっていた。


 隣にいる彼女は―――近眼だから、まだよく見える。



 でもきっと彼女には、僕の姿だって輪郭がはっきりしないのだろう。





「必ず治してあげますからね」





 少し指にぶら下げていただけで雪の張り付いてしまった眼鏡のレンズ。
 それを懐から取り出した眼鏡拭きでそっと拭き取ってから、また掛けた。



「うん。それまで、頑張るね」



 弱弱しく、それでも可憐に、微笑んでみせる。
 今にも枯れそうなクロソフィの花。











 ……戦闘が終わったようだ。
 僕達を呼ぶ声が、いつの間にか戦場を遠くにずらしていた彼らの方から聞こえた。




「行きましょう、ソフィ」





 細いクロソフィの茎を摘み取るように。






 僕は優しくソフィの手を引き、吹雪いてきた中、ゆっくりみんなの元へ歩みを進めた。










ソフィが失明しかけた頃。明滅もしてたけどあえてスルー。
失明も近眼も景色が見えないことに違いはないと思って浮かんだお話。です。
近眼(だよね?)の度合いとか視界のぼけ具合とか近眼の定義とか失明の治し方云々は完璧模造ですから、お気になさらずに。
……ところで、樹の下に立ってたら、樹に積もった雪の下敷きになりませんか、お二人さん。