そのドアを開けて、薄暗い中最初に蹴ったのは、床でもなく壁でもなくはたまた質素な家具でもなく、痩せた男の身体だった。
ハルルでエステルに会って、花吹雪の下で新作の絵本を見せてもらってから、どうせならザーフィアスまで顔を出してやるかと出向いた結果がこれである。
(何で太陽の出てるうちに酔いつぶれてるんだろ)
深い寝息を立てている男を見下ろしながら、そんなことを思った。
部下からの信頼厚き一個隊の隊長の部屋とは思えない、例えるとすれば仕事もせず朝から晩まで飲んだくれているだけのおっさんの部屋のような。
そんなところでだらしなく寝転がっている――というか、意識が朦朧としてベッドと思って倒れこんだだけだろうが――のは、まさにこの部屋の主なのだった。
ぼさぼさの髪は下ろされて、沈んできた太陽の作り出す濃い影も相まって、赤ら顔の表情はよく分からない。
服はどうやら部屋着らしく、きっちりした騎士の装いではなく、簡単な薄いシャツとズボンに大きな羽織を引っ掛けただけの非常にだらけきった格好だった。
どんな会話を用意しようか、仕事の邪魔だったら引き返そう、などと考えてやってきた自分がバカみたいに思えてきた。
そもそもこの男は寒さに弱いはずなのだ。肌寒くなってきたこの時期にこんな格好で床に転がっていたら、
(風邪ひきそう)
思ったら、ため息をついた後、何故だか身体は自然に動く。
…風邪を引いて、明日の仕事がままならなくなったら後味悪いからだ。
自分にそう言い聞かせながら、やたら肉の薄い腕を持ち上げ、男を背中に背負うようにした。
そのまま、ベッドのある窓際まで歩く。
痩せ型といえど、それはやはり大人の身体で、重たい。身長が足りず、男の足は引きずられてずるずると音を立てていた。
それでも何とかベッドまで運び終え、きちんと寝かせるのに苦労をしつつ、毛布を掛けるところまでやって、あたしは何をしてるんだろうと思う。
世話を焼きに来たわけじゃないのに。
何故か、彼が身体をないがしろにしていると気にしてしまう。
ふと、踵にぶつかって鈍い音を立てたものがあったので、床を見やれば、闇に溶け込んで分かりにくいが、黒い酒壜がひとつ転がっていた。
少し中身が残っていたらしく、壜の口から液体が零れでた痕跡があった。
気付けば机の上にも、散らばった書類の上に風で飛ばないよう重石代わりにしてあるらしい壜が五本ほど立ててあった。
しかし、こちらは転がっているものと違い、まだ栓も開けられていない。これから飲むはずだったんだろう。
(……酒弱いのに無理して)
いつしかふざけてユーリが買い物ついでに買ってきたものをこの男に飲ませたところ、壜半分も一気飲みさせられてあっという間に倒れてしまったのも、今は昔のこと。
しかし、飲めないのをあの時悟ったはずなのに、何故この人はこんなにも酒瓶をそろえたのだろう。
よほど辛いことがあったのだろうか。…否、そんなことは関係なかった。
「…こんなの全部飲んだらどうなるかわかんでしょ、身体大事にしなさいよ致死量って言葉知らないの」
馬鹿!!とそこまで一息に叫び、その直後に思わず声に出してしまっていたことに気付いた。
しかし、起きる気配はなく、とりあえず一安心。でも、苛々は取れない。
この男は自分の体調管理に気を使う気はないのだろうか。
(……………)
…もしかして、こいつは。
(いつ死んだっていいって、思ってる?)
ぞくりと肌が粟立ち、急に背中に寒さを感じた。
思わず、ベッドの上を見る。相も変わらず、先ほどから規則正しい寝息を立てているのは分かっていたのに。
この男には、あまりにも「死」という言葉が近過ぎるから。
…何故だろう。
(この人を失うのが、とても怖く思える)