気がつくと、周りが全て白一色に染まっていた。…否、正確には、一面が白い壁で、何の家具もない部屋、といった方がより的確だった。

 その寂しい空間に、俺は一人、ぽつんと立ち尽くしていた。誰かいないの?と声を出そうにも、何故か微塵にも喉は震えない。言葉がこびりついたようだ。

 とりあえず、その場から動こうとするとしかし、そこから一歩も踏み出せないことに気付いた。前進はおろか、後退も許されない。セメントみたいに固まってしまった足元を直視して、俺は異変に目を見開いた。

 足首から下が、灰色の塵に覆われていた。――いや、そうではない。足が灰色の塵と化し、霧散しているのだ。

 背筋が一気に冷えた。とっさに目を逸らそうとしても、固定されたように動かない。自分の“結末”を見ておけと、誰かに頭を押さえつけられているかのように。

 くそ、どこでもいいから動けよ、俺!

 意思と反し、身体はぴくりとも動かない。もう、息も出来ていないのではないかと思うほど。

 そんな馬鹿な、どこからこうなっちまったんだ?

 いくら焦っても、冷汗も恐怖から湧く涙も、今は一滴も垂れない。

 そうしているうちに、爪先から形を失い、膝が砕け、腰が微粒子になり、胴が着ている服ごと消失し、――
















「――ッ、はあ、…っはぁ…!」


 がば、と起き上がったら、部屋は黒一色だった。

 状況がつかめないまま、動悸が収まってくると、首に右手を当てた。冷たい。ちゃんとつながっている。消えてなんかなかった。

 身体もどこもなんともない。ただ、全身汗だくで気持ち悪かった。

 黒一色の世界に、影と光が射す。月明かりがほんの少し照らすカーテンのうねりから、部屋においてある家具まで、見慣れた自分の部屋の一部だった。

 俺は暫く、なんともいえない喪失感に包まれていた。


(………夢……――)


 はあ、と息をつく。あれは夢だったのだ。現実に俺はこうしてどうもせず、ベッドの上で半身起こして目を見開いて荒い息遣いで呼吸するだけで済んでいる。

 カーテン越しに外を見やっても、まだどこも闇に包まれている。夜明けからは程遠い時間帯のようだ。月明かりだけが一筋、自分の部屋をほのかに照らす。

 夜目が利くわけではないが、歩き慣れた自室なら暗闇の中でも歩ける自信があった。もそもそと毛布の中から抜け出し、冷たい床に素足をつけた。ひんやりとした感触が、まどろみから目を覚まさせてくれる。


(……なんで、あんな夢見たんだろう)


 ひたひたと静かな音を立てて窓に近寄り、カーテンに手をかけてそっと開ける。静寂をかき分ける音がして開かれた外の世界は、ぽつりぽつりと立ち並ぶ街灯だけが頼りない光を発している。今の俺のような、一人で静かにひっそり、外を見つめているだけの存在。

 あんな夢を見たのは、この灯りの所為、だろうか。――否、それは考えすぎというものだ。俺の場合、その考えすぎが癖になっていることが一つの障害でもある。

 俺は暫く外を眺め続けていた。暗いから時計を見る事も出来ず、どのぐらいの時間が経ったのかも分からなかった。明かりは点けられない。何故なら隣の部屋、壁一枚向こうにリンが寝ているから。

 こちらの部屋で明かりを点けると、少しの隙間を保つドアから光が漏れ出て、リンの部屋までも照らしてしまう。そして、彼女を起こしかねない。こんな時間に起こすようなことはしたくなかったし、逆に何故俺が今起きているのか、と問われ、からかわれる落ちも絶対に嫌だった。

 …かといって、そんなに眠くもないのが事実だ。さっきの夢で、目が冴えてしまった。

 自分が“消える”夢が。


(俺……怖い、のか?)


 く、と寝巻きの胸の辺りを強く掴んだ。――確かに“消える”ことは怖い、のかもしれない。でも、飛び起きた直後は、そんなに不安に思わなかった。今この瞬間に、初めて浮かんだ感情。

 俺たちは所詮、ボーカロイドだから。興味があったからインストール、そして出会った後飽きたらアンインストール。そうして“消える”ことなんて慣れっこだ。

 “消える”ことに執着なんて、なかったはずだった。筈なのに。急に湧いたこの感情は、どう表せばいい?


(……もう、よそう)


 夜に考え事をするとマイナス思考になると聞いたことがある。こんなことを考えていても埒が明かないし、気分も沈むだけだ。俺は重くない瞼を恨めしく思いながら、ベッドへと歩みを辿った。

 …かたん。


(……ん?)


 背後で音がした。リンはさっきまで規則正しい寝息を立てていた気がする。……状況を見たら、気がする以上にレベルの高い確証を得られそうになかった。

 振り向けば、そこにはドアが開いて、オレンジ色の光が射している。…それだけなら、良かったのに。

 ドアノブに手をかけている人物がいた。空いている手で目を擦り、いかにも眠たそうにしているそいつは、今俺が一番会いたくないヤツだった。

 暫くその場に下りた沈黙。俺が困り果てていると、急に彼女の目じりがうるうるしてきた。そして一筋、雫が頬を辿――――


「……――って、おいリンッ?」


 慌ててリンとの距離を縮め、その顔をよくみた。逆行になっていて気付かなかったが、よく観察すると目が少し赤い。何か夢を見て、泣いたのだろうか。俺の夢より、怖い夢を見て?

 か細くしゃくりあげるリンに、俺は刺激しないように体勢を変え、背中に前から腕を回した。ゆっくり、ゆっくり擦ってやる。次第に、涙が引いてきた。まあ、元からあんまり泣いてはなかったけど。


「………あり、がと」


 リンは鼻声で小さく、呟いた。――と思ったら、突然俺の腹に頭突きを喰らわしてきた。闇夜に慣れてきた目でも、今は表情が読めない。ああ、それにしても、


「…ってェなリンッ。 何すんだよ」

「レンがあたしのこと子ども扱いするのが悪いのよッ」


 いつそんな扱いしたんだよ、と問いたかったが、答えは見えている。さっきの行動だ。リン的には、弟に慰められたのが悔しかったのかもしれない。俺だっていつも感じていることだ。ちょっとは思い知れ、という感じである。

 それにしても、さっきまでの弱々しい態度はどこにいったんだ。見ればすっかり、リンはいつものテンションを取り戻していた。てか、何であんなになってたんだろう。やっぱり、夢かな。――と思うほうが、何となく、勝った気分になれるのは内緒だ。

 それに、「怖い夢でも見たのか」なんて聞いたら、逆に問い返されそうで怖い。また子ども扱いしたなーっと殴りかかられるのもまた然り。俺はリンと違って、場所と空気を読んで行動できるんだ。


「ねえ」


 …人が考え事をしている時に話しかけてくるリンは、姉といえど俺よりガキだ、と言い聞かせてみる。

 優越感があるはずなのに、何故か苛々してきて、俺は不機嫌な声でそっぽを向いて応答した。


「…何」

「一緒に寝ようよ」


 は。

 何を言い出すんだコイツ!ていうか、はっきりと言うな。俺は絶対、ストレートにそんなこと言えない。弱みを見せるようで。

 俺はリンとは違う。一緒だけど、違うんだ。ただの弟じゃない。ただの劣化コピーでもない、絶対。

 もう、俺は子供じゃないんだ。姉と一緒に寝るなんて、ガキだ――と、俺は思っていた。それなのに。ああどうして。

 返事は俯いて、ただこくりと首を縦に振っただけだった。













「じゃあ、枕持ってくるね。 レンの部屋で寝よっ」


 先に寝ちゃ嫌だよ、とリンは言い残し、肯定も否定も聞かないままさっさと自分の部屋へと戻ってしまった。

 まあ、俺もリンの部屋で寝るよりは自分の部屋の方が幾分かは落ち着けるけどさ。

 隣の部屋に明かりが点き、ドアの隙間から漏れ出た光だけで俺の目は眇められた。長く暗闇の中にいた所為だろう。

 …その明かりを除けば、今の部屋はさながら夢の続きのようだった。

 でも、相違点が多い。部屋は今、白く見えるものはほとんどない。部屋全体が薄暗い。その暗闇に紛れて、家具や機材が多々置かれている。リンが枕を引っつかむ衣擦れの音も小さく聞こえる。

 唯一合っている事といえば、今、自分の部屋に一人でぽつんと立ち尽くしていることくらいだった。

 誰かいないの?などとは問いかける必要もない。俺は人を待っているから。誰を?それこそ愚直な質問だ。

 ……あ、もう一つ、夢と同じことがあった。今、俺の声は再び出なくなっていることだ。

 この現象に、ある法則性が見えてきた気がする。でも、それを言うのは、あまりにも…恥ずかしかった。

 でも、確認したい。その思いは、とても強かった。羞恥心よりも、はるかに。

 そこへ、お待たせーと、やっぱり眠そうにリンがドアを開けた。部屋に一歩、踏み入ると同時に俺は――


「わっ」


 真横から聞こえたリンの声。腕に当たったのは、リンの匂いがする枕。

 ちらりと見えたリンの横顔は、驚きに満ちていた。当然だ。よもや部屋に踊ってきた瞬間俺に抱きつかれるなんて思ってもいなかったに違いない。


「リン」


 声が出た。

 彼女は逆に、言葉をど忘れしたかのように黙り込んでいた。口は開きっぱなしで。

 目を閉じて、リンにもたれかかる様にした。少しくせ毛の、自分と同じ色の髪の毛からは、枕と同じ匂いがした。女の子の香り。

 夢は、俺にとても大切なことを教えてくれた。

 リンが居なくちゃ、俺は何も出来ないただの廃棄物でしかないってこと。

 甘えたくないとか、弱みを見せるのは恥ずかしいとか、それらは皆、ただの意地だってこと。

 俺はリンを誰よりも大事に思ってたんだ。一番失くしたくない、一番自分に近い存在なんだということを、再確認させてくれた。

 リンが居て、よかった。


「…どうしたの、レン? 怖い夢見たの? それで起きてたの? 何で…」


 こんなこと、するの。最後はとても小さな声だった。

 半分当たってる、と思う。自分が消える夢を見て、リンを失くしたくないと思ってこうしてる。

 後から考えると、あまりにも女々しい、告げるには相当の勇気が要る理由だ。

 そして俺は案の定、それを告げられずにいた。そのうちリンが、


「まあいっか」


 と、明るく切り返してくることを予想できたから。俺の行動から導き出される思考を、大体リンはパターンを読んでくる。

 もうあたしが居るから怖くないもんね、と姉面をする。ゆっくり撫でられた頭がくすぐったかった。今の俺の表情はきっと、とんでもないことになってるだろう。見られないように必死に、リンの肩に顔を埋めた。熱が伝わってはないだろうか?

 頭を撫でる手がゆっくり滑り落ちたかと思うと、不意に、がくん、とリンがくず折れた。顎を床に叩きつける前に、俺は慌てて両手を床につく。何とか痛い思いはせずに済んだ。いきなりどうしたんだろう、リンは。

 横を向けば、全く何と言うべきか。

 リンは寝息を立てていた。床の上で。頭をぶたなかったのは、俺の膝が上手い具合にクッションになったから。……なんでそんな急に寝れるんだよ。

 拍子抜けした俺は、刺激しないようにゆっくりリンの頭を浮かせ、立ち上がると、背中にリンを背負った。どうせベッドまでは10歩もない距離だけど、引きずっていくのも申し訳なかったから。

 枕を片手で拾い上げた辺りで、俺は、


(このままリンの部屋に返してもいいんじゃないか?)


 思ったと同時に、リンの手が強く俺の寝巻きの裾を掴んだ。一瞬だったけど、とても強く。

 その突然の衝撃は、俺にある一言を思い出させた。


―― 一緒に寝ようよ


 リンが最初にそういったのだ。もしかしたら、彼女も夢を見たのではないだろうか。不安になるような、怖い夢を。問う勇気は、ないけど。

 でも、その行動で確実に伝えたいことは、リンにも俺が必要だってこと。――というのは、考えすぎなのか?自意識過剰か?まあ、それでもいいや。今だけは、そう思えた。

 急に涙が出そうになった。慌てて目を擦る。俺は少し、感動してしまったのだ。自意識過剰の、想像に。でも、絶対涙なんか零さない。カイ兄にいつも自分の居場所を取られているように思っているばかりだったから、必要とされるのに、慣れてないだけ。それだけ。リンだから、なんて要素は、無い。…意地だって分かってるけど。

 ベッドに寝かせたリンの寝顔はとても安らいでいた。俺が色々考えていることなんか、全然気にしていないかのような。でもやっぱり、リンの俺と同じように、色々悩んでいたり、苦しんでいたりするんだと思うんだ。思うだけだけど。自分だけなんて、嫌だから。仲間が欲しいって思ってるだけだから。

 俺はリンの横にそっと身体を寄せると、跳ね飛ばしてそのままだった毛布を自分たちに掛け直した。

 もちろん、心臓の高鳴りは絶頂。でも不思議と、落ち着いていられた。






 久しぶりに二人で寝るんだから、誰も邪魔しないでくれよ。