今日は仕事(レコーディング)があって、俺は昼からだけど、今朝早いリンの収録に付き合って、朝から出ている。現在進行形でリンが仕事中、俺は仕事場(スタジオ)前の深緑公園で、時間まで暇をつぶしていた。
手ごろな無人ベンチがあり、そこにごろりと横たわる。まだまだ寒い風が吹き抜ける。そして、ふと物思いに耽った。
言葉通りの意味、なのだろうか――最近俺は、よく考える。
題目は『滑舌』。どうも俺は舌滑りが悪く、初心者のマスターには扱いづらいらしい。
作られてたったの三ヶ月。それでも、俺を上手く扱ってくれて、良い歌を調子よく歌わせてくれるマスターも増えてきた。このまま、リンやカイ兄に負けないくらいの歌を届けられたら――それが、今の俺の願い。
俺は、自分の滑舌の悪さが嫌いだ。自分は一生懸命歌っているのに、最初は何回やっても機械音。まあ、機械(アンドロイド)なんだけど。
…でも、今は。
「あ、レン君。 どうしたの?」
肩が異常に震えた。そうだ、俺の今日の目的は別にある。滑舌云々言っている場合ではない。
背中から俺を震わせた声の主、その人を俺が起き上がって見ると、案の定、俺の憧れの人がそこにいた。
ミク姉。早口の歌やアニソンをなんなりとこなす、(俺にとっての)スーパーアイドル。俺にとって姉であり、ボーカロイドとしての先輩であり、俺たちに不慣れなマスターでも扱えて、高い支持を得ている。
その容姿、踵まで届きそうな長いツインテール、黒にブルーラインのミニスカ、ニーソもまた、ミク姉を語るにして欠かせない要素の一つである。
…って、俺は何を語っているんだ。別に、ミク姉は先輩として憧れているだけで、その、…そ、それだけだからな。それ以上は無いからな。やけに詳しいとか思われても、俺は知らないぞ。
そう自分に言い聞かせても体はかちんこちんだ。よろけながらベンチから下り、ぎこちなく、声をかける。
「あ。 と…ミ、ミク姉も、どうしたの。 今日って仕事…?」
ないんじゃないの。そう言おうとした俺の声はやっぱり震えている。格好悪い。どうにかしろ、俺。
対してミク姉は、俺の言葉にきょとんとしている。声の震えが気になったのか?それとも、俺、なんか変な事言ったかなぁ?
「何言ってるの? 今日はお昼から私とデュエットの仕事が入ってるじゃない」
「え…」
「レン君は、何でこんなところにいるの? 休憩なら仕事場の休憩室で出来るのに」
聞かれたことに対しての応答は後回しだった。私はさっきまで仕事で、気分転換に来たけど――というミク姉の声に、俺は自分の記憶に喝を入れた。消えてしまいたいほどの恥ずかしさを、俺は今身をもって知ったよ。
俺の馬鹿野郎。何のためにカレンダーに印をつけていた。全てはミク姉とのデュエットの為だろう?
俺は自分の予定(スケジュール)はもちろん、ミク姉と、ついでにリンの予定もチェックしている。リンは、忘れっぽいあいつに俺が教えてやる為だけど、ミク姉をチェックする理由は――。
……言えるか。そんな事。
とにかく、今日の俺の予定が昼からのデュエットと夕方の一曲で、ミク姉は午前中のトークと昼の一曲だけだと、朝急ぎながらチェックしてきただろう、俺。それを忘れるなんて、俺は自分で自分が情けなかった。
さて、自戒を終えたところで、この場を切り抜ける方策だ。確かに、ミク姉の言うことはもっともだ。今の俺はあまりにも不自然だ。
リンについて来て暇をしている――なんていったら、収録を見に行ってあげなかったの?と小言をいわれるに決まってる。それはやっぱり格好悪いし、俺が今、一番言われたくないことなので、却下。
でも、リンを利用するしかない。ミク姉がリンの予定をチェックしていませんように。
「リ…リンの収録、見てきた後なんだ。 で、外の空気が吸いたくなって」
現在進行形で収録中のリンに対して、明らかな嘘。だめだ、後半がいかにも後付けだ。そんな言い訳でも、ミク姉は「ヘぇ、」と声を漏らした。
「仲いいのね。 いいなあ。 …私も、兄さんに見に来て欲しいかも」
暇があればいつも新作アイス買いに出かけちゃうのよね、と笑うミク姉。良かった、ミク姉的には違和感は無かったようだ。でもちょっと待て俺。
いま、「兄さん」とミク姉が言っただろう。
間違いなくカイ兄をさす言葉。ミク姉は俺よりカイ兄を選ぶのだ。それは俺の心にぐさりと突き刺さる。上手く誤魔化せてほっとしたはずなのに、何故か心苦しい。悔しい。
そこで俺は気付いた。
(……やっぱり俺は、カイ兄に嫉妬するんだな)
ていうか、また嫉妬か、俺。
でも、この感情は、以前のそれとは違う気がする。なんと言うか、カイ兄にそのまま嫉妬、というより…こう、ミク姉が絡んでいるような。ああ、俺って説明下手だな。
それにしても、一体俺とカイ兄のどこに差があるのだろう?……あるとしたらやっぱり、あの慣用性だろか。ミク姉はカイ兄のような、何でも優しく受け止めてくれるような人がいいのかな。俺みたいな年下じゃなくってさ。
ミク姉、お姉さんタイプだもんな。そりゃ、年下より甘えれる年上の方が良いに決まってるけど。
「………レン君? なあに、その顔。 私、何か悪い事言った?」
気付けば、ミク姉の顔が目と鼻の先だった。ミク姉の綺麗な翡翠色をした瞳が心配そうに伏せられて、こちらを見ている。その表情は何時にも増して色っぽい。
でも…さすがに、この距離は耐えられない。俺は失礼ながらも慌てて距離をとった。その行動にきょとんとしたミク姉に、俺は大げさなくらいに両腕を振り、必死に説明した。今さっき説明下手だと自覚したばかりだというのに。
「い、いや、ミク姉が悪いとかじゃなくて! その…俺が、か、考え事してたのが」
「そっか。 よかった」
言い終わらないうちに分かってもらえたようだ。うう、にっこり笑った顔もまた素敵だ。
俺が暫く固まっていると、ミク姉は俺がさっきまで寝そべっていたベンチに俺を手招きした。とりあえず座ると、ミク姉は近くの自動販売機で炭酸飲料を二本買ってきて、自分もベンチに腰掛けたあと、俺に一本渡してくれた。
これは……奢り?いや、勝手に奢りって決めるな、俺。失礼だ。でも何で急に?
「レン君も、次まで暇でしょう? 一緒にちょっと休憩。 あ、飲み物のお金は気にしないでね」
勝手に買っちゃったけど、炭酸大丈夫?と聞き返すミク姉の素振りの何と可愛らしい事か。炭酸は平気だったけど、これがもし俺の飲めないものでも、ミク姉の奢りなら何だって飲みます。
あ、そうだ。お礼。せっかく奢って貰ったんだ、先輩にはそれなりの礼儀を、
「……あ、ありがとう」
――返せたのか、これは?我ながら何とぎこちない。…まあいいか、ミク姉は気にしてないみたいだし。
ああ、それにしても。ミク姉が俺と休憩時間を過ごしてくれるなんて。
俺一人舞い上がって、何を話そうか迷っていると、ミク姉の方から声をかけてくれた。さすがお姉さんというべきか、年下のフォローは慣れているようだった。年下扱いなのって、やっぱり悔しかったけど…ミク姉だから、許す。なんて。
「どう? 最近は。 調子は良い?」
「う、うん。 もう、ばっちり。 この前リンとデュエットしたのが、ランキング七位だったんだ」
「へえ! 凄いわねえ」
そういって、俺の頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。爆発寸前の火薬みたいになりながら、俺は自分を罵っていた。
ミク姉を前にしてリンの話をするなんて、俺はなんてデリカシーの無いやつだろう。まさかミク姉が俺のような嫉妬を抱くことは無いだろうけど、それでもここは、自己のソロをアピールすべきだったんじゃないか。
それに、数時間後にはミク姉とデュエットなのに、高ランクのデュエットを紹介してどうする。ミク姉がプレッシャーに感じたらと思うと…。それでも、一度言ったことは取り消せない。
いっそ「俺たちならもっといい曲が歌えますよ」と言うべきなのか。否、余計プレッシャーになりかねないし、リンを蔑ろにするようなことしたらみんなのお姉さんミク姉は俺を叱るはずだ。
そう、みんなのお姉さん。カイ兄のような優しさが、ミク姉にもある。
…そんな人になら、俺の悩みを言えるかな?
そう思ったときには、
「あの、ミク姉。 ちょっと、聞いて欲しいんだけど…」
と、拙く話を切り出していた。
十分もしないうちに話は終わった。実際は半分以上愚痴だった気がする。ごめん、ミク姉。心の内で謝っておく。
「…ふうん。 レン君もいろいろ大変なのね」
まず返ってきた返事がそれだった。皆そんなもんだよな、やっぱり。
やばい、落ち込んできた。こんな事言っても、ミク姉に同情してもらう以外望めないよな…。
ここで励ましの言葉が来て、この話は終わりだ。さて、次の話題を考えておかなきゃな――、
「でも、私はいいと思うけどな。 声に特徴があるのって」
「ありがとう、ミク姉……って、え?」
あれ、ミク姉は自分の考えを言ってきた。予想外。俺は見当違いな返答をしてしまった。格好悪い。
まあ、俺の体裁なんかどうでもよくて、俺は先の言葉を必死に聞いた。
「同じような声でデュエットするより、二人で全然違う声で綺麗な音を奏でられた方が聞く方も歌うほうも楽しそうじゃない」
そして、カイ兄と同じようなことを言うミク姉。俺は本気で落ち込んできた。今話している悩みとは別の、絶対誰にも言えない悩みで。
俺の入る隙間なんて、無いのかな。俺は所詮、ミク姉にとって弟のようなものでしかないのかな。
そう思うだけで、何だか泣けてきそうだ。いや、泣くな。せめて、ミク姉の前では。
ほら、今のミク姉の笑顔のように笑え、俺。笑うんだ。そう叱咤しても、やっぱり俺の表情は晴れない。頑張れ、俺。
自分のことで必死になって、ミク姉の声を危うく聞き逃すところだった。
「今日の歌も凄く楽しみだったのよ。 私、レン君の声が一番好きだし」
…え?
俺は耳を疑いたくなった。表情も一変していることだろう。今ミク姉はとても重要なことを言った。
違う意味で泣けてきそうになった目に力を入れながら、訊ねた。
「……い、今、何て」
「え? 今日の収録凄く楽しみで」
「違う、そのあと」
「…レン君の声、私は好きだよ?」
この人は変なところで天然なのが困る。不意打ちだ。
夢じゃないよな?俺のインカムが故障してるんじゃないよな?
俺のコンプレックスを、ミク姉は好きだって言ってくれたんだ。一番。カイ兄よりも?
「ど、どうしたのレン君っ? …泣いているの?」
感動した拍子に力が抜けた。思い切りベンチにもたれかかって、ずるずると姿勢が崩れていく。顔なんて、涙でぐしゃぐしゃで、触らなくても分かるくらいに熱い。ああ、今の俺、最高に格好悪い。
ほら見ろ、俺の馬鹿。ミク姉の顔が心配のあまり歪んでいるじゃないか。馬鹿。馬鹿。大馬鹿者。こんな、俺のことでミク姉を悲しませてどうする。
でも、涙は後から後から溢れてくる。こうなってくるとミク姉以外の視線も気になってきた。くそ、止まれ、涙。とまれったら。
…泣きすぎて、そのうち、どうして泣いてるのか分からなくなってきた。悲しいから?嬉しいから?もうどっちでもいいや。
だって、ミク姉が服とお揃いのカラーをしたハンカチで俺の頬や目元を拭ってくれているんだから。こんな幸せでいいんだろうか。
しかし、そのシチュエーションもやっぱり恥ずかしい。俺は適当なところで強がっておくことにした。くう、惜しい。
「い、いいよ、ミク姉。 もう平気だって。 …は、恥ずかしい」
「そんなこと言わない。 こんな顔で収録に行ったらどんなに心配されると思ってるの。 …ほら、これで冷やして」
ミク姉のお姉さんぶりに俺は憧れているわけだけど、こう世話焼き度が増すと、さすがに…。
そう思っていると、瞼の上からひやりとした物が乗せられた。目は開けなくて、何かよく分からないけど、冷たくて気持ちいい。火照った顔にちょうど良い温度だった。
「レン君、頭こっちにして」
言われて、頭を横に倒された。何を、と思っているうちに、頬に柔らかい感触。人肌の温度。
こ、これは…まさか。
「腫れがひくまで、膝枕しててあげるから。 大人しくしていてね」
もう今すぐ暴れたい気持ちでいっぱいだった。でも我慢我慢。危ういところで身を固める。
頬の感触が呼吸にそって規則正しく上下する。時折、飲料を飲む音が聞こえた。
そういえば、せっかく奢って貰った炭酸飲料が手付かずだった。でも、もうそんなのどうでもいいや。
このまま、時が止まってしまえ。