そろそろ夕陽がいい感じに赤く染まるだろうという頃合に、レイヴンは一人、ぶらぶらと散歩をしていた。
切り立った崖からふと下を覗けば、岩に波を叩きつける荒々しい海が、赤と青の狭間に彩られ、なんとも言えない幻想的な色を醸し出している。
風が気持ちいいなあ、と呟きながら大きく伸びをする。同時に、潮風が右頬の傷に沁みた。治してもらったとはいえ、まだ腕には包帯もある。明日には完治する、というのはエステルの言葉。
こんな情けない怪我を負うとは、年なのかね。と思わずにもいられない。
最近は皆との年の差も、少し気にしてたり――というのは、内緒だ。
そう、例えばこんなとき。
先ほどのそれほど高くもない崖の下の浜辺に、二十も離れた女子がいたとき。
(そういや休憩と同時にどっか行っちまったんだっけか)
自然とそちらに足を向けて、器用に崖を降りていく。それにしてもあの子はどうやって降りたのか。
聞けば「天才に不可能なし」と返るに違いない。自然と笑みがこぼれた。
よっ、と弾みをつけて一気に二メートルばかり飛び降りた。いくら年でもこれくらいで足を痺れさすようなヘマはしない。
少女はレイヴンに背を向け、座り込んでいた。体育座りで、俯いている様だ。右腕の細いリボンだけが風になびき、身体は微動だにしていなかった。
海を眺めているのか。悩み事を生命の母に聞いてもらおうというのか。
なかなか話しかけるタイミングがつかめず、しばらく岩陰で見守っていると、規則正しいさざ波に、雑音が混じった。
(泣いてる?)
珍しい。誰とも仲良くしようとしないお堅い天才様が。
よっぽどのことがあったのだろうか。――あったっけか?
覚えてない。
自分の見ていない間に何かあったのだろう、もしくは寒くて鼻を啜っただけさ、と勝手に納得する。
そろそろ夕陽の赤も濃くなり始めたので、暗くならないうちに崖の上まで連れ帰ろうと、レイヴンは歩を進めた。
「――こんなところにいたのね、リタっち」
あからさまに動揺。しかし振り返りはしない。泣いている――憶測でしかない――のだから、プライドの高いリタとしては当然か。
…振り返るどころか立ち上がりもしない。帰れないのだろうか。何故?
刺激するとどんな痛い目にあうか分かったものではないので、そうっと、レイヴンはリタの隣に腰を下ろした。
「急にいなくなったと思えば、母なる海に相談事? 皆にはいえないような悩みなのー?」
でも、口から出るのは軽口ばかり。反射的に、にへらっとしてしまう顔も仕方がない。
いつもならここで、「何でもない。 どっかいけ」などと冷たくあしらわれるのが落ちだが、今回はだんまり。
心なしか、体が震えている気がする。寒いのか。怒りに震えているのか。…否、後者の場合は魔術の準備が施されるはずなので、警戒を解くことにする。
「…なあ、顔見せてよリタっち。 リタっちがそんなんだと俺まで悲しく――」
おふざけが許されたのはそこまでだった。
ばしぃっ、と小気味いい音が、左頬から強烈な痛みとともに発信された。浜辺中に響いたんじゃないのコレ。
いちち、と自身の冷たい手を当てる。これまでにない痛さだ。海に顔をつけたいくらい。
てっきりいつものように魔術で来るものだと思っていたから油断した。リタは体型に似合わず平手も強かった。この子は他人に対する加減を知らないのだろうか。
立ち上がったリタが、まだ座り込んでいるレイヴンを見下している。逆光で、表情が読めない。夕陽の濃い影なので、尚更だ。
そのリタの顔を見上げたレイヴンは思わず、目を見開いた。
乾いた浜辺に、小さな雫がニ、三。落ちていた。
やっぱり顔は良く見えない。体の震えは止まることを知らないように、嗚咽と共に上下する。
どうでもいい予想が、確信になった。
「……の」
この子は、泣いていたのだ。
「誰の所為だと思ってんのよ」
掠れた声。でも、音量はこだまするほど大きく。
顔を上げたリタは、それはもう凄い事になっていた。
赤く腫れた瞼、綺麗な瞳からとめどなく溢れる涙、それに心なしか、顔に血が集中しているようだ。
そんなくしゃくしゃの顔を、レイヴンは呆然と見ていた。
誰の所為、なんて台詞、当事者にしか言わないだろう。つまり、
(俺の所為だっての?)
可愛い子に泣いてもらえるのは光栄なことだが、何かしでかして泣かせたともなると申し訳ない。しかも理由がさっぱりわからないときた。
一体、何を思ってこの子はこんなに泣いているのだろう。
そう思っていると、途切れ途切れに、先ほどの百分の一より小さい音量で、波の間から声が聞こえた。
「…あ、あんな無茶して」
無茶?さっきの戦闘のことだろうか。要はこの怪我の原因だ。
頬の怪我に触りながら、
(まあ確かに無茶振りしたけどさ。 フォローが入ったんで何とかなったのよね)
リタはまた、下を向いてしまった。浜辺に大粒の涙が落ちる。
さらにボリュームが落ちていく。リタは懸命に、声を絞りだしていた。
「…んだら、ど…すんのよ。 馬鹿。 あ、…あたし、――」
それ以上は、声になってなかった。でも、言いたいことは聞き取れた。
死んだらどうするんだ。と。心配してくれているのだ。
二十も離れた女の子が、こんなしがない自分を、泣くほど心配してくれた。
もう、格好悪いとでも言うように、リタは両袖で思い切り顔を拭った。それでも、涙は溢れる。また拭う。
…どうして。
こんなにも、この子を守りたいと思うのだろう。
気付けば、リタはレイヴンの腕の中だった。リタは殴るでもなく、噛み付くでもなく、静かに泣いている。
ぎゅう、と腕に力を込める。こんなに心配してくれる子がいるなんて。
ああ俺はなんて幸せ者なのだろうか。
「……悪かったよ。 リタっちがそんなに心配してくれてたなんて、おっさん知らなかったわよ」
リタの涙が自分のシャツににじんだ。その暖かさが、何故だかとても心地よくて。
「もう、あんな無茶しないわ」
「…絶対、だかんね」
上着を強く握ってきたリタの手は、もう離さない、とでも訴えるかのようだった。