「ねえ、カイ兄」
前方にカイ兄を見つけた俺は、ふと声をかけてみた。
うん?と振り返っていつものお人好しそうな笑顔を見せる兄さんは、その手に一つのカップアイスを持っていた。開封済みだ。パッケージからして高いアイスなのだろう。よっぽどマスターにねだったのか、何かのご褒美なのか、俺には知る由も無い。
そのアイスをカイ兄は、にこにこぱくぱく、誰が見てもとても幸せそうに味わっている。俺と目が合っても食べるのを止める様子を見せないカイ兄を見かねて、俺は注意をした。
「……話すときくらい、アイス食べるのやめろよ」
というか、今何月だと思ってるんだ。朝昼晩何時会ってもアイスを食べているカイ兄の腹具合がとても心配だ。
カイ兄は俺に言われてやっと気付いたようで、慌てて肩から提げていた小型のクーラーボックスらしき箱の蓋を開け、封をしたアイスをしまった。カイ兄はアイスと一心同体なのか。
ばこん、と蓋が閉まり、中身に充満しているドライアイスの煙が舞って、カイ兄はやっと俺と喋る気になったようだった。まったく、世話のかかる兄貴だな。
やっぱり笑顔は絶やさず、でもちょっと困り気味に訊ねてきた。
「ごめん、今日はたくさんレコーディングして疲れちゃって。 やっぱり疲れたときは甘いものだよ。 あ、レンも食べるかい? 僕、今日はたくさん持って――」
「いい、いらない」
冷たく返す。兄さんがアイスをたくさん持ってるのはいつもの事だし、俺やリンにやるアイスも安物ばかりで飽きた。それと、ホントにカイ兄は今が何月か分かっているのだろうか。
俺の応答にしゅんとするカイ兄に呆れ、俺は「冬にそんなにアイス食べる兄さんが有り得ないんだよ」と言い放った。
するとカイ兄は子供のように口を尖らせ、反論する。
「何を言うんだい、レン。 アイスは年中美味しいものだよ」
まあ、反論することは読めていた。…でも、話が噛み合ってない気がする。真顔でそんな事言われてもって感じだよな。
確かに加工品は食べれるものなら大抵のものは年中美味しいし、アイス自体に罪は無い。…でもさすがに、カイ兄ほど食べたら絶対拒否反応が出るよ、普通。カイ兄の内臓は全部凍ってるんじゃないかとも思う。
いぶかしむ俺を見ながら、カイ兄は「そういえば」と切り出した。
「何の用で声をかけたんだい、レン?」
あ。
忘れてた。言われて思い出した自分が情けない。誰が何の用も無しにこんな兄貴相手にするかよ。
こほん、と咳払い。こういうの、気取ってるようで嫌だけど、こういうときのあとは相手にからかわれるのが常だから、威厳は取り戻しておかないと――と、勝手に思ってる。
カイ兄を見つける前はどう切り出そうか迷ってたけど、今の会話でちょうどいいキーワードも出てきた。そこから引っ張ってみよう。
「カイ兄、今日何の曲録った?」
「え? ……――っと…」
踏んだとおり、躊躇う。俺はへっ、と鼻で笑うように、皮肉たっぷりに言ってやった。「どうせまたネタソングだったんだろ」と。
案の定、図星をつかれたカイ兄は驚きを微塵も隠さず顔に出している。何で分かったんだ?とでも聞きたそうだ。カイ兄はリン以上に単純だ。
そのまま俺は、調子に乗って言葉を続ける。
「…よく外で『バカイト』とか、そんな事ばっか言われてんじゃん。 何で否定しないんだよ。 何で、受け入れてそんな曲ばっか歌ってられんだよ」
自分でも、言葉遣いが荒いことが分かった。一瞬でも自分の立場と重ねてしまったからだろうか。俺は、カイ兄よりもいろいろ言われる。たまに、嫌なこともやっぱり言われる。それが嫌なことも、ある。
これは俺たちの宿命、なのか?マスターになされるがまま、俺たちの意見も聞かず、どんな曲でも歌わされるのは。そう考えさせられることも時々ある。
皆に言われることだけど、俺は皆よりプライド意識が高いらしい。だから、あちこちで何か言われるたびに、片っ端から反発していくのだと。ミク姉は年相応だと言うけど、リンは子供っぽいって笑う。それもまた嫌だった。
そして、その反発がまた新たな言葉を生むのも鬱陶しかった。俺はもう、そんな世界に疲れきっている。
その点、カイ兄は俺と比べて寛容だ。そのことは俺もよく知っていた。だから「何の評価も無いよりは良いし、僕もこういう歌、嫌いじゃないから」とにこにこ笑って返してくることくらい、俺にはわかった。そして、それは当然の如く当たった。
さて、次をどう切り出そうか――俺は迷っていた。…でも、何で俺はこんなにカイ兄に当たっているんだ?どうして、こんな乱暴に気持ちをぶつけているんだろう。
そう悩んでいるうちに、「それにね、」と、続きを紡がれ、俺は目を丸くした。
俺が考えている時に急に話し始めたのもそうだし、これ以上この発言に続く言葉はカイ兄にはないだろうと思っていたこともまた一つの要因だった。
そんな俺の胸中を、カイ兄は知るわけがない。上目遣いに呆然とカイ兄を見上げる俺を見て、笑顔で語り始めた。
「僕の歌声を、どんなジャンルでも待っててくれる人達がたくさんいるからね。 僕はその期待に出来るだけ応えてあげたいだけなんだよ。 評価されない曲を歌っても、マスターも、僕も、全然楽しくない。 それなら、何と言われようが一種の褒め言葉として受け入れていったほうが、きっと楽しいよ。 ――な? レンもそう思うだろう」
まるで、屁理屈をこねて暴れる子供を諭す兄のような喋り方だった。むかついた。
俺はそれ以上、兄さんを見ていられなかった。何か聞いたけど、声も聞いていられなかった。
カイ兄に背を向けて、俺は駆け出した。
情けない。ガキだ。走りながら俺は改めて、自分が子供真っ只中の年齢でしかないことを悟った。
駆けて、駆けて、ビルの外に出て、無意識にいつも日の当たらない裏庭に回って、小さな芝部に身を投げた。目立たない場所なのによく手入れされた芝草が静かに舞う。
俺は仰向けになり、射していない太陽を遮るように右腕を視界にかぶせた。
(……何逃げてんだ、俺)
ごろりと右に寝返りをうち、目の前に咲いていた小さな青い花を一本、毟り取った。ちょっとの間眺めて、すぐに背中に投げ捨てる。
何故、逃げてしまったんだろう。どうして、こんなところにいるんだろう。
答えは俺の中で、実に明白に表されていた。
――『カイ兄の自信に嫉妬して、苛々してる』。
あんなこと、そうそう言えるものじゃない。と、思う。どんな言葉もにこやかに受け入れて、顔も知らない人達のために歌うなんて。それをしかし、カイ兄は今目の前で言い切ってしまったじゃないか。
もともと、俺にはカイ兄にあって俺にない資質が見えすぎていた。どんなことをとっても、俺はカイ兄に劣る。リンやミク姉達がいないと何も出来ないヤツだと、思ってしまう。心の底では、絶対に信じたくない。けど、現実を見るとそうなのだ。…と、考えている。
(ずるいよな)
そのミク姉やリンだって、最近はカイ兄ばかり構う。俺のことは『可愛い弟』くらいにしか思っていないに相違ない。
自分が体も心もどうしようもなくガキであり、カイ兄のような大人の享受性、広い寛容性がないことは分かっていた。悪ガキを気取ることしか、自分を見せることが出来ない時点で、俺はガキだった。
でも思わず、悪態をつく。胸の中が毒にでも冒されたように、熱く、ちくちくする。
くしゃ、と前髪を掴み、瞳を強く閉じ、歯を鳴らした。
(何で、カイ兄なんだ。 何で俺には何もない?)
この憎しみに近い感情を何と言うか。
少年、未だ知り得ず。