雨の日は何となく、気分が重い。そして今は、両手も重かった。
(何でこのタイミングで降って来るかなあ…)
この大型スーパーに入店した時は確かに晴天だったのに、本屋で立ち読みした後音楽店とゲーム屋を冷やかしてリンからのお遣いメモを手に食料品店を回って。
そして気付けば、外では分厚い雲から大粒の雫が無数に降ってきていた。
今日の天気予報は大ハズレ。何が「本日は天気に恵まれてよい日差しとなるでしょう」だ。喜んで洗濯物を干した人達は今頃涙目だ。
自分も例外ではない。今俺の両手には、ずっしりと重たい野菜やら肉やらが詰まった袋がぶら下がっている。普段の優に3倍はある買い物量だ。
こんな大荷物、晴れてなきゃ引き受けない。今はスーパーの軒下にいるので濡れないが、忌々しきことかな、傘を持っていない。
この中を濡れ鼠状態で走って帰るのかと思うと、心の中まで曇天だ。思わずため息。家でのんびりゲームをしながら待っているであろうリンが今ほど恨めしいとおもったことはない。。
どーすっかな、と灰色に塗りつぶされた空を見上げていると、横ではおなじく買い物帰りの主婦や親子連れが次々と各々の傘を差して、帰路に着く姿が見られた。
羨望より嫉妬より、まず後悔。みんな、かばんに折り畳み傘でも常備しているのか。そうか、今日はそれが失敗だった。くそう。
はああ。さっきより深いため息。携帯も忘れた。すぐ帰れると思ったから。リンに迎えに来てもらうことも出来ない。
帰りが遅れたらリンは何ていうだろう。せっかく今日は隣のミク姉とカイ兄を呼んでプチパーティーしようっていってたのに。そのための材料を買いに来たのに。
三度目のため息をついて、そろそろ決心するかと雨の中の街道を見据えたまさにその瞬間。
「あれ……えっと。 レンさん、…でしたっけ」
背後の自動ドアの開く音とともに、女神の声が聞こえた。
―――なんて大袈裟に言うほどのことではなかったが、知り合いの声がした。この、未だ聞き慣れない大人の低音ハスキーボイス。
「ル……ルカ姉?」
振り返ればそこには、同じく両手に重たそうな荷物を入れたバッグを提げているルカ姉が少し不安げな顔をしてこちらを見ていた。
最近、俺たちのアパートに引っ越してきたルカ姉。挨拶して以来あまり顔をあわせていなかったが、一応顔と名前は覚えていた。
そんなルカ姉の不安げな表情はしかし、俺が名前を呼んだことで崩れた。入店前の天気のような顔に早変わり。
「よかった……人違いだったらどうしようと思いました。 私、物覚え悪いですし」
あからさまにほっとした様子のルカ姉を見ていると今の状況を忘れそうになる。ああもう全てが解決して今は家の前で井戸端会議をしているんだなあって思わせるような、なんかオーラっぽいものが今のルカ姉にはある気がする。
「今日はレンさんがお買い物ですか?」
「?」
「いえ、一昨日はリンさんがたくさんお買い物していたので…」
あいつ、帰りが遅いと思ってたらルカ姉に油売ってたのか。おかげで昼食がおやつの時間になってしまった。
「あ、でも、その時は本当に見かけただけで」
なんだ。じゃあやっぱりあの大量のお菓子の吟味に時間かけてたんだな。消費するのに二週間は余裕でかかる。
そう、と俺が締めくくると、会話はそれきりになった。もともとルカ姉は喋る方ではない。
と、俺は勝手に思ってた。
けど…さっきの様子だと、なんか普通のお姉さんっぽい。うふふーって笑って、そうですよねーって微笑んでる、そんな感じの。
何ていうんだろう……ミク姉とは違う……こう、和み系?みたいな。そういう人種なのかもしれない。クールなイメージってのは、俺の想像でしかなかったし。幻滅…したような、してないような。
会話がなくなったことで、ルカ姉は少し間に戸惑っているようだった。でもすぐに別れの挨拶を告げながら黒いピンク水玉の傘を広げる。
「あ」
思わず出てしまった声に、ルカ姉が振り向く。しまった、冷静になってみろ、俺。
俺が何故、ルカ姉の声を女神の声だと思ったか。なんてことはない、予備の傘を頂くかもしくは一緒に入れてもらおうかと思ったからである。
しかし待て待て待て。冷静になれ。後者の選択の別名を知らない俺ではない。そう、相合傘だ。
そんな現場を万一俺に傘を届けにくる(その確率は極めて低いが)リンにでも見られたらどうする。嫉妬深いリンの機嫌は急降下。今日のパーティーは中止。そんなのダメだ。
それに……それに、ミク姉だって、遭遇する確率はゼロとも言い切れない。ミク姉はなんとも思わないかもしれないが、その場合二重に俺が嫌すぎる。
でも、濡れ帰ってリンに笑われるのも嫌だ。ああどうしてこうプライドが高いんだろう、俺。自覚しているのに、思考が言うこと聞かない。
実に様々な思考をめぐらせている間、ルカ姉はじっと俺のほうを見て首を傾げていたが、俺の両手にないものに気付き、そしてこう言うのだ。天使とも悪魔ともとれる囁きを。
「よかったら、入ります?」
ルカ姉は自分の傘を持ち上げ、その傘下へと俺を導くのであった。にっこりと、綺麗な顔で。
きっと何の考えもない。ただの善意。自分の損得ばっかり考える、俺と違って。
外を見る。相変わらずの天気。回復はまだ先のようだ。ルカ姉を見る。ほらほら早く入りなさいよと言わんばかりに、笑顔で傘を小さく揺らして待っている。
……濡れて帰っても相合傘しても恥ずかしい事には変わりないか。
そう自分を納得させて、俺は素直にルカ姉の善意に甘えた。
家はどうせ隣なので、途中でこの恩恵が途切れる心配もない。そんな安心と、ルカ姉とかつてない至近距離である事実(まだ出会って数日だけど)に緊張を覚えていた。
雨の中でも、ルカ姉からは少し良い香りがする。ミク姉の髪のシャンプーの香りとは違う、大人の香り。
俺より少し背の高いルカ姉。こうして並ぶと、そのことを改めて感じる。見上げる人といえばカイ兄くらいしかいなかったので、女性と話す際顎を上げて話すというのはなかなか新鮮だった。
しかし、くだらない世間話は数分で尽き、辺りは雨の奏でる不規則なメロディーと、それに混じる靴音だけになった。
大人の傘は広い。なので二人ではいっても、肩が盛大に濡れているということはなかった。これがリンとだと、必ず常にどちらかの肩が濡れ続け、傘の取り合いが家まで続く。
ミク姉とだったら…俺はどんなに濡れようが気にしない。ミク姉に寒い思いさせないように精一杯尽くす。――夢でしかない。こんなの。つか、俺ちょっと気持ち悪い?
無言になるといろいろなことを考えてしまってダメだ。かといって無理矢理話題を振ってくれる気遣いはさすがにルカ姉にもないようだ。
なぜかにこにこ笑っている。何がそんなに楽しいのだろうか。なにか趣味関係のものでも購入したのか。ルカ姉の趣味なんて知らないけど。
ルカ姉は自分のバッグの中身を見て(やっぱり中身の所為で笑ってるのか?)、それから俺の買い物袋の中身をのぞきこんできた。
て、ちょ、ただでさえ近いのに!こんな状況、慣れてない。
「………な、何、か」
「あ、いえ。 リンさんと二人分にしては、多いなと」
「……あ、ああ。 えーとですね」
「何で敬語になってるんですか?」
とうとう突っ込まれた。ルカ姉だって敬語じゃんか。でも仕事上の後輩にタメはきっと、俺が許せそうにない。
俺が敬語になってたのはルカ姉との距離に焦っていたからなのだが、そんなこと本人に話すのもなんだか恥ずかしかったので、無視して口調だけ直した。
「き、今日、ルカ姉の歓迎パーティやるから。 ――て、言わなかったっけ」
声のうわずりだけ直らない。何動揺してんだよ。俺にはミク姉という人がいるのに。いや、まあ、その、独り善がりだけど。
ルカ姉は俺の言葉にああ、と感嘆の声を漏らした。
「すいません、忘れてました」
この人マジで忘れっぽいのだろうか。さすがのミク姉もそこまでボケボケではない。あれか。いわゆる天然?なんか違う気がするけど。
「ヘぇ、そうなんですか。 わー……」
急に目をきらきらさせ始めたけど、どうしたんだろう?
と考えた瞬間に、色々な意味で輝かしいルカ姉の顔が更に近くなる。わ、わ、わ。顔と一緒にミク姉やリンに足りない唯一のものが、ちょ、待って待って。
「私、こういう歓迎パーティ、初めてです」
ああそうですか、とりあえず元の位置に帰って!色々近いから!
自分の顔がどんどん朱に染まっていくのが手に取るようにわかる。平静に冷静にと心の中で叫べば叫ぶほど、紅潮はスピードを増していく。やばいやばいやばい、もういっそ傘の外に出たい、水を頭からかぶって冷ましたい。
瞬間、俺の願い事は同時に二つ叶った。
ばっしゃああ。
脇の車道を猛スピードで自家用車が走り抜ける。タイヤは水溜りを思い切り踏み、その回転力でそこに溜まっていた大量の雨水は勢いよく巻き上げられる。ルカ姉が願いどおり身を引いた。まさにその時だった。
またしても願いどおり、俺は傘でガードし切れなかった部分、車道側の体半分に盛大に水をかけられた。
呆然。思わず歩を止めてしまった。ぽたぽたと、体から雫が垂れる。髪の一部までべたべただ。インカムがあまり濡れなくて助かったというべきか。
ルカ姉も呆気に取られたように俺の惨状を見ていたが、はっと我に返ると慌ててハンカチを取り出して、俺に差し出す。
「だ、大丈夫ですか?」
「うん、まあ、平気。 ちょっと濡れただけだし」
「ちょっとじゃないですよ。 風邪ひいちゃいます」
ハンカチを渡すことにも焦れたのか、ルカ姉は俺の濡れた体をあちこち拭きまわった。こういうタイプはきっと断っても聞かないだろうと思った俺は、好きなようにさせておいた。
やがて気が済んだらしいルカ姉は、車道側に位置を変えてから再び歩き始めた。
「今度はルカ姉が濡れちゃうよ」
「私は大丈夫ですから。 子供のレンさんは、まだまだ体が弱いでしょう」
なんだよ。寒さくらい――――と思ったと同時にくしゃみが出るもんだから、ああもう。
案の定、ルカ姉も「でしょう?」と微笑み、先へと歩く。子ども扱いされた。まあ、向こうは完全に大人なんだけど。
暫くまた無言が続いた。時々「寒くないですか?」とルカ姉が聞いてくるくらいで、俺はその度に「大丈夫だって」と答えていた。心配性だな。
そのうちに、ルカ姉が歩く先ではなく、俺を見つめていることに気付いた。
「…………どうかした?」
「あ、気付かれてしまいましたか」
そんな「てへっ☆」みたいな悪戯っぽい笑みを浮かべられても。バレバレでした、正直。
「あのー……、良かったら、でいいんですけど」
「何」
「髪を、下ろしてもらえませんか?」
特に恥ずかしげもなくそういったので、やっぱりただの好奇心だろうと俺は思いながら、ヘアゴムを引き抜いた。
適当にまとめてあった長髪が、ぱらりと肩に落ちる。特に女みたいな細かい手入れもしていないので、別段さらさらでもない。何が面白いんだろう、ルカ姉は。
しかし実際面白いらしく、歩きながら視線は俺の髪、いや顔?に釘付けのままだった。
「…そんな、面白い?」
「はい! ……あ、いえ、そういう意味じゃないんですけど」
寝癖が酷いとかじゃないのか。髪が跳ねているのはリンと一緒で元からだけど。
「リンさんと、似てますよね。やっぱり」
………ああ、そ。
そんなことだったのか。無駄にほっとしてしまった。
それ自体はまあ、時々いわれることだし。別にルカ姉が初めてそんなこといったー、なんて笑うこともない。
「……まあ、そっすね」
「二人いると、楽しそうですよね」
「ゲームする時とかは、退屈しないかな。 口うるさいけど」
そうですか、とルカ姉は少し憂いを込めた微笑を浮かべた。そうか、ルカ姉だけ一人暮らしなんだっけ。
「…………一人暮らし、寂しくないですか」
唐突にそんなことを聞いてしまった。しかもまた敬語だし。ルカ姉の表情の所為だ。くそ。
ルカ姉は少し驚いたような顔をして、それからちょっと困りながら答えた。
「一人に、もう、慣れてしまったような。 それでいてまだどこか、寂しいと思う気持ちがあるような、ですね」
どっちだよ。なんて率直な意見はあまりにも子供っぽいのでやめておく。わけわかんねえ、に留めておこう。
やっぱりクールなイメージが崩れても、ルカ姉は芯はミステリアスな人だと思う。手の届かない世界の住人みたいな。実は異世界人なんて落ちはないよな。
ルカ姉の顔を窺うと、口では何といってもやっぱり寂しそうだ。それがまたミステリアスな雰囲気を出しているんだけど。
それを見ていたら、ルカ姉がどうにもかわいそうに思えてきた。年上に情けをかけるのもどうかと思うけど。
「あ、着きましたよ」
いわれて気付けば、確かにアパートの前だった。時間が流れるのが早かったような、遅かったような。
ではまた後ほど、と傘を閉じて去っていくルカ姉の背中に、俺は叫んだ。
「ルカ姉!」
ルカ姉が振り向く。しまった、呼び止めたはいいけどどう慰めればいいんだろう。そもそも、ルカ姉は寂しさを自分なりに乗り切ってたりしたら?俺はただのお節介なんじゃなかろうか。
ルカ姉は依然「?」を頭に浮かべたままで、「パーティの時間は7時でしたよね」と言う。時間の確認がしたいんじゃないんだ。そうじゃないんだけど。
「さ、寂しくなったら、遊びに来ていいし。 その、リンも、喜ぶだろうから。 ミク姉だって、カイ兄だって。 だから、その……」
一人じゃない。
そう言いたいだけなのに、口からでるのは遠まわしな言葉ばかり。本当にもう、俺は肝心なところでダメだ。
ルカ姉は少し固まっていたが(表情が読めない)やがて、離れた距離を向こうから近づけてきた。ど、どうしたんだ、一体。
近づいてきたルカ姉は、本日何度目かの綺麗な笑みを浮かべていた。そして、細くて白い手を、何と俺の頭に載せたのである。それだけでなぜかどきりとした。
そのまま、まだ下ろしたままの頭をなでまわされる。以前ミク姉にかき回されたような感じじゃなくて、なでなでと、優しく。
顔の紅潮は一気にMAX。恥ずかしくて恥ずかしくてしかもここ家の前だしリンやミク姉が通りがかりでもしたら!
開いた目と口が塞がらないゆでだこ状態の俺に、ルカ姉は再び微笑む。
「寂しくなったら、またお話しましょうね。 レンさん」
その微笑みは、今日見た中で一番の女神の顔だった。
ただいま、の声とともにドアノブに手をかけ、押し開く。
玄関へと迎えに出てきたリンは、俺の姿を見るなり驚いた。
「あれ、何で髪下ろしてるの? ていうか、びしょ濡れじゃない!!」
「ちょっと…色々あって」
何故だかルカ姉のことは口にしたくなかった。リンに嫉妬されると思ったのだろうか。俺の醜態を知られたくないと思ったのだろうか。
突っ込んでくるかと思ったが、リンはさっさと買い物袋――しかもメモにあったお菓子が詰まっている方の袋を俺から奪った。
すぐに中身を見る。重たい野菜類をテーブルの上へと放る。
「よかった。 お菓子は無事かー」
おい。と思った。少しは俺を労われよ。食い意地ばっかりで本当に困る。
はあとため息をついて靴を脱ぎ、荷物を脇に置く。そのまま歩こうとするとリンが駄目、といってタオルを差し出した。
俺が心配なのか、俺が通る床が濡れるのが心配なのか。さっきの扱いからして前者の可能性はかなり薄いと見た。またため息がつきたい気分だ。
俺は遠慮なくリンの持ってきたタオルで適当に身体を拭き、ついでにお風呂も入っちまうかと思い、お風呂を沸かす準備を始めた。
「あ、ねえ、料理は?」
「たまにはリンが全部やれよ。 いっつも俺が手伝うじゃんか」
「五人分なんて一人で作れないよ、もう。 早くお風呂済ませてよね」
はいはい、と呟きながら、俺は何を思っていたんだろう。
そんなこと、湯船に浸かっている間に忘れてしまった。