それは、久しぶりの客だった。
控えめとは言いがたい、どちらかというと態度の大きいノックが二回、古びた我が家のドアに響く。
今日は久々に仕事が早く片付いたので、午後からはダングレストを包む暖かい日差しの下自宅でゆっくり昼寝でも――。
そう思い、寝台の上に横になってから、実に五分後のことである。
(タイミング最悪だっつの、まったく)
現在一人暮らしの身としては、こういうとき自分の代わりに外の客に応答してくれる人間がほしいとつくづく思う。
しかし、現実は現実。仕方なくむくりと起き上がる。この際、皺くちゃの羽織もぼさぼさの髪もどうでも良い。
どうせこんな自分のところに尋ねに来る奴といえば、門前払いする類が九割だ。面倒なだけの彼らを上手く寄せ付けない方法はないものだろうかといつも思う。
また、今日の午後から会おうと約束した旧知の友とかもいない。というか、プライベートではここ暫く誰とも連絡を取っていない。
再び、ドアが音を立てた。今度はノックの音ではなく、まるで思い切り蹴り上げたような。ドアが壊れやしなかっただろうか。
はいはいはい、と無駄に呟きながら広くとも狭くともつかない部屋を通り抜け、ドアノブを回した。
途端、午後の眩しさが目にしみる。家の中が暗かった所為もあるが。
反射で目を瞑って、少しずつ目を慣らしているうちに、「何してんのよ」と客から声がかかった。
その声に、思わず顔を上げた。声を発した、逆光で顔の見えないシルエットに少しあっけにとられ、
「……リタっち?」
「そうだけど。 何、とうとう年でボケたの?」
くすくすと猫の様に笑う彼女はなるほど、確かにあのリタ・モルディオその人だ。
ただ、三年前とは違って背も少し伸び、身体もより大人に近づいていた。印象が違うように思えたのはその所為だろう。
「そかそか。 おー、すっかり成長しちゃってまあ」
「………それ、なんか久しぶりにあった親戚のおじさんみたい」
「んー? おっさん、子供いないんだけどな」
苦笑しつつ、ぽんぽんと頭を叩いてやる。本当にリタが子供や姪という立場であれば、さぞ手がかかって、でも楽しい日々が過ごせそうだなと思いながら。
対してリタは「叩かないでよ、馬鹿がうつったらどうすんの」と冷たい反応。その反応は三年前を思い出させて、なんだかちょっと嬉しかった。
「馬鹿とは酷いわね、リタっち。 これでも俺様、結構な切れ者よ?」
そう言い返すと、リタはあからさまに不機嫌になる。何か気に触ることでも?と聞く前に、
「もう子供じゃないんだから、その呼び方やめてよね」
言われて、ああそうかと思い直す。
彼女ももう十八。成人してないとは言え、社会で十分やっていける年である。
暫く振りに会うので、自分の記憶の中でリタはまだ子供のままなのかもしれない。
「じゃあ、なんて呼べば良いのよ」
「え、…そんなの、おっさんの好きにしていいけど。 いちいちあたしに聞かないで」
「そんならリタっちでもいーじゃない」
「それはダメ」
「難しい事言うわねー…。 ……んじゃ、リタ、で良い?」
以前はついぞ口にしなかった呼び捨てが、今はこんな簡単に口に出せることに驚きを感じつつ、そう提案した。
聞いたリタは少し頬を染めて、しかし小さく頷いて了承をくれた。
安心して、思わず笑みが出る。リタはますます頬の赤を濃くして、視線をそっぽへと向けた。
「あ、なんか用事あったんでない? 忙しくないなら中入ってよ。 おっさんもう今日は人ごみに突っ立つの疲れてさ」
「…別にまあ、用って程でもないけど。 でもおっさんの家って、人入れられるの?」
「……おっさん、傷ついたわ。 意外と綺麗好きなのよ、俺様!」
「その割に身なりがうさんくさいわよ」
指摘されて初めて、ろくに身なりを整えずに応対したのを思い出した。
ため息をつきながらも、リタはドアの奥の暗がりへと一歩、足を踏み入れた。
「結構広いのね」
「まーね。 俺様ほどにもなると結構良い部屋紹介してくれるんだわ、これが」
頭の後ろで両手を組みながらふらふらと慣れた部屋を歩き回る。余計なものを置くのが肌に合わないのも、また、部屋の広さに拍車をかけているだろう。
客が来ているからといって片付ける気はあまりなく、むしろいつも片付いているので必要はなかった。
反してリタは、緊張しているのかせわしなく視線を泳がして、落ち着かないようだ――
なんて事はなく、それこそ自分の家のようにずかずかと踏み込み、しかし興味津々に部屋のあちこちに視線をめぐらせていた。
「そういえばおっさん、今は騎士団の仕事やってんじゃないの? 何でここに家があるのよ」
「あー、お勤めよ、あっちは。 ここがおっさんの真のテリトリー。 あっちは今は亡き隊長主席殿の後釜ってだけだから」
「…あっそ。 あいかわらず掛け持ちってわけね、ギルドと」
「その言い方はちょっと誤解が…ま、いいわな、細かい事は。 それよかリタっ…、は、何で俺様の家知ってんのよ」
思わず癖で以前の呼び方が口を突こうとしたのを寸止めし、返答を待つ。
「エステルよ。 帝都に行ってもあんたが留守だって言うから、ちょうどハルルから来てたあの子に聞いたの」
しつこくせがまれた際口を割ったのが幸か不幸か響いていたらしい。
聞いたところで、エステルに暇ができるのはいつの事かというくらい忙しい身であろうに。
それでも、皇帝補佐並びにハルルの新人絵本作家である彼女が、気になったことには首を突っ込まないと気がすまない性質であることはよく知っている。
(しかし)
今までずっと寝てたの、シーツだけくしゃくしゃじゃない、と笑うリタをちらりと見て、思う。
(もう呼び捨てに慣れたのかね、魔導少女は)
てっきり、呼ぶたびにうろたえるものだろうと思っていただけに、少し寂しかった。
思えば三年も離れていたのだ。多少の内面的な変化があっても不思議ではない。と、わかっているのに。
自分の記憶の中ではいつまでも、あの小さな天才少女が口うるさく突っかかってくるような気がして。
「……何、あたしになんか言いたいことでもあるの?」
リタが唐突に問いかけてきたことを疑問に思ったのは一瞬だった。知らないうちに視線はリタに釘付けだったのだ。
真っ直ぐ射抜いてくる、綺麗な碧の大きな瞳。
じっと見ていたら、無意識に彼女の名前を呟いた。
「何?」
「…リタ」
「だから何」
「リタ」
「……っ。 ちょっと」
リタ、リタ、リタ。うわ言のように繰り返す自分に対し、身体を震わせてただただ困惑するリタ。
そのうちに顔の赤みが増していき、とうとう耳まで赤が広がったその瞬間、我慢ならなくなったらしいリタは抗議の言葉を吐いた。
「さっきから何。 はは恥ずかしいでしょ」
昔を思い出させる、うわずった声。
聞いた途端にほっとする自分が、なんだかリタの成長を否定しているようで少し憎い。
でも、嬉しい。記憶の中のリタにもう一度会えたことが。
思わず、顔がからかう時のにやにやした表情になる。こういう顔は胡散臭いと嫌われたものだが、止められない。
「お、やっと照れた。 やっぱそれでこそリタよね」
「うっさい、からかうな!」
叫んだ瞬間、綺麗な左ストレートが頬に直撃。骨の髄まで鈍い音を響かせて、床に思い切り頭をぶつけた。
……相変わらず、星が見えるほどの凄まじい破壊力なことで。結構、結構。
内心、そう笑い飛ばしたい気持ちでいっぱいだったが、また殴られるのは勘弁だったので胸の内に留めておく。
その代わり、口頭で「悪かった、調子に乗りすぎた」と弁明すると、リタは少し落ち着きを取り戻し、まだシーツがくしゃくしゃのままのベッドに腰掛けた。
それでもまだ苛々している空気はびしびしと伝わってきたので、刺激しないように自分はカーペットの敷かれた床の上に胡坐を掻く。
ベッドの上でまだ赤い顔をしてそっぽを向いているリタの、短気で照れやな性格がとても心地いい。
そして思い出したように、リタに催促をかけた。
「んで、用事って何よ、リタ?」
「…だから、用って程でもないんだけど。 相談、みたいなもんよ」
……相談?
魔導器について言われても恋愛相談や人生相談でさえ、まともに答える自信の無いこの自分に?
提供してやれるものといえば、ギルドと騎士団を通じての情報網、困ったときの裏道なんかのアウトローなものばかり。
(…そーいうのは青年の分野でしょうに)
大して深刻そうな表情をしないところから、本当にどうでもよさそうな用事の様な気がしてくる。
それでも、出来得る限り、力になってやりたかった。
「んじゃ、お茶でも用意するわ。 あっちのテーブルで待ってな」
「え。 …そんな、長ったらしい相談はしないつもりなんだけど」
「いーからいーから。 ほれ、お菓子も出すし」
自分からぐいぐいと背中を押して、リタは困惑気味にテーブルの方へと歩いていった。
そして、自分はダイニングの方へと歩を進め、お茶を淹れるためお湯を沸かして、傍らで色々もらう度あちこちの子供に配っていたお菓子の残りを戸棚から取り出す。
甘味好きの彼女を引き止める策がこれぐらいしか用意できない自分に、腹ただしいやら情けないやら。
思いを巡らせつつ、先日酒場の女性から押し付けられたフルーツケーキを一切れ、小皿に乗せた。