たかがお茶の用意にいつまでかかってるのかしら。
そう思いながらリタはテーブルに頬杖をついて部屋を見回していると、ようやくレイヴンが姿を現した。台所から出てきた彼の手には、木製の盆。
その上には、暖かそうな湯気を立ち昇らせている出来立てのコーヒーと紅茶、そして大皿いっぱいの細かい菓子類。脇には小皿に一切れのフルーツケーキがあった。
先程からの甘い匂いはこれらの匂いだったらしい。しかし、どうもこの男と甘味のツーショットは合わない。思わず眉根を寄せて、小首を傾げてしまう。
レイヴンはそんなリタに介さず、盆の上から飲食物をテーブルへと移す。根城である天を射る重星でのアルバイト効果か、その動きは無駄に様になっていた。
でも確か、あの酒場って蜜蜜ザッハトルテとかの甘味に力を入れているんじゃなかったっけ。
次々に湧き出る矛盾に苛立ちを覚える。レイヴンがテーブルを甘い匂いで埋め尽くしたところで、リタはとうとう不満を口に出した。
「おっさん、いつの間に甘いもの大丈夫になったのよ。 からかい甲斐がないじゃない」
不機嫌に睨みつけると、リタの反対側の椅子に腰を下ろしたレイヴンはまるで針にでも刺されたかのように驚いて両手で否定した。
「んなわけないでしょ! これは全部、貰い物。 ほら俺様顔広いしさ」
「そのうち九割方は酒場かどっかで女性に貰ったものだ、と」
「……そんな冷めた目で事実を突きつけられると、さすがにおっさんも落ち込むわよ?」
げんなりした表情でレイヴンはコーヒー(おそらく無糖)に口をつけた。そして我慢ならないといったように首を振り、鼻をつまみながら再び台所へと消えていった。
がさごそと戸棚を漁る音を聞きながら、リタは目の前に広がったお菓子の庭を見つめていた。貰い物だったら本人が責任もって食べるものではないだろうか。
……美味しそうだけど。
「それ、全部食べちゃっていいから。 ていうか食べて。 おっさんじゃ処分しきれないから」
甘いもの好きだったでしょ。そんな声が聞こえる。わざわざ家の中に入れようと引き止めたのはそういうわけだったらしい。
子供に配ったりもしてるんだけどさ、と言いながら再び戻ってきたレイヴンは、湯源郷の印が入った煎餅の袋を抱えている。ユウマンジュから取り寄せたのだろうか。
席について豪快な音と共に袋を開けると、醤油の匂いが漂ってくる。…と思いきや、こちらの席には相変わらずの甘い匂いしかない。
レイヴンはバリバリと煎餅を貪っていた。目の前の甘味には目もくれない。本当に自分で食べる気はないらしい。
しばらくそんなレイヴンを眺めていたが、ただ見ているのもお預けを喰らっているようで馬鹿らしくなってきたので、リタもクッキーの包みに一つ手を伸ばした。
封を開けて一口で食べる。程よい甘みと隠し味程度の柑橘の香りが口の中に広がる。普通に美味しかった。
「でもさ、どうせ食べないんなら最初から貰わなければいいんじゃない?」
「んなことできないわよ、みんな好意でくれてるのに。 俺様への愛ゆえよ? 無下に断ったりしたら可哀想でしょうが」
「ダングレストの女はプレゼントを贈る相手の好みも考えずに押し付けるのね」
「……世の女性達はみんな甘い物好きだからね。 自分で作った余り物とかが俺様に回るようにできてるのよ……」
所詮あんたは余り物の価値しかないのね、と直球で言うと、レイヴンは身を一瞬凍らせた。
だが、「ダングレストの中で人気が高いのは事実だもんね」と拗ねて見せると、すぐに何事もなかったように煎餅を口に運んだ。
なんでこんなヤツがそんなに女性に好かれているのだろう?不思議でならない。
今度は飴玉を掴んで口の中に放り投げた。舌で弄び、ころころと鳴らしながら、
「それに、余り物でもせっかく好意で渡してくれてるのに、こうして他人に食べられちゃざまないわね。 これこそ、その人達の気持ちを踏みにじる行為だと思うけど」
「まま、そこは形だけということで。 ここにわざわざ訪ねに来るのなんてよほどの急用があるヤツだけだしばれないわよ」
そんなものなのだろうか。まだ納得のいかない箇所は多々あったが、何にせよこうして目の前に広げられているお菓子たちには何の罪もない。
なのでリタは、ふーん、とだけ呟いて遠慮なく大皿からシュークリームやチョコレートを貰った。
丁寧にラッピングがされたままの手作りのお菓子は、若干粉っぽかったりしているものもあったが、食べられないことはなかった。
その後もビスケット、ミニタルト、カステラ等、手当たり次第に口に放り込んでいく間、レイヴンは真っ黒なコーヒーを飲みながら、こちらを観察するように見ていた。
見たことのない菓子も混ざっていて、レイヴンに聞いてみると「彼女達の創作だってさ」と返された。別段変な味はしなかった。お菓子屋でも開けばいいのに。
一通りの菓子をつまんで、リタはやっと冷め切った紅茶に手を伸ばし、一気に飲み干した。そして今度はフルーツケーキを食べようとフォークを掴みながら、
「最近、誰とも連絡とってないでしょ」
ぎくりと大袈裟に動いたのはレイヴンのなで肩。リタは冷めた目でレイヴンの反応をうかがう。
彼は少しの間考え込むように顔を伏せ、それから見せた表情はへらへらした笑い顔だった。
「……え〜? おっさんちゃんとまめに生存報告してるってば〜」
「耳。 動いてる」
その一言で目を見開いて、反射的に自分の耳を押さえつけるレイヴンは、なんだか面白い。
思わずくすくすと笑い声が漏れた。必死に笑いを堪えるリタを見ているうちに、レイヴンは緊張していた表情を解き、気が抜けると同時に落胆の色を見せた。
「鎌かけるなんて汚いじゃないの」
「騙されるあんたが悪いのよ。 ちゃんと事実として実行しておけばいいのに」
「う……」
言葉に詰まったレイヴンは返す言葉もありませんといった様子で、深く肩を落とした。
今にも「ごめんなさい」と謝ってきそうな彼を見て、リタはまた笑いそうになる。
(まあ、元気そうね)
誰に聞いても「元気にしてるだろう」という推測しか返って来なかった彼の調子が知れただけでも今日来た甲斐があったというものだ。
リタは笑いながらため息をついて、フルーツケーキをフォークで一口大に切り崩した。
「あれから結構経ったのに、全然変わんないわね、あんた」
「そりゃ、リタみたいな成長途中の子供とおっさんを一緒にされちゃ困るわよ。 それに、年寄りにとっちゃ二年三年なんてあっという間だし」
「そんな年寄りがダングレストと帝都を往復して仕事なんて、よくやるわよね」
そう話を振ると、レイヴンは大きく息をつき、なんともいえない表情をした。
「まあ、帝都はたまに実地の仕事やりにいくだけなんだけどさ。 それでもホント、この老体にはキッツイ仕事なのよ〜」
声の調子は明らかに疲労している感じだ。年だとわかってるなら、わざわざ騎士団の仕事なんて受けなきゃいいのに。
しかし、そうは思っても、シュヴァーン隊を治められる即戦力はそうそういない。『本人』が治めるしかないのだ。
リタが複雑な顔をしているのを読み取ったレイヴンは取り繕う様に付け足した。
「だからこうして、休みもちゃんととってるって。 俺様仕事の要領いいから、結構とりやすいのよ」
語尾を得意げにして、レイヴンはにやりと笑みを浮かべる。
ギルドと騎士団という全く違う組織で、同時に休みを取るなんてことは相当に難しいはずだ――リタの想像に過ぎないが。
しかし彼の場合、両方の組織でかなりの権力を握っているので、そんなことは造作もないことなのかもしれない。
(やたら上司思いの部下も多いしね)
思わず思い出し笑いをするほどに呆れ果ててしまう面子ばかりだけど。
何だかんだ言って、レイヴンは女性だけではなく、部下達の心までも魅了してしまう力を持っているのだ。
そう色々考えをめぐらせていると、せっかくの休暇に邪魔したかな、という思いと同時に、
(なんだか、レイヴンが随分遠くへ行っちゃった様な気がする)
かつての仲間達に胡散臭がられ、事あるごとに殴られるわ蹴られるわを繰り返していた彼の姿が、今思い出すとなぜか少しおぼろげで。
その事が、リタを少し寂しくさせた。
「…おーい、そんなにいっぺんに食べて大丈夫か?」
声にハッとなり、手を止める。リタは自分の両手に収まっている、最後の一口のフルーツケーキと片手で掴めるだけ取ったスナック菓子を呆然と見つめた。
無意識のうちに、やけ食いを起こしていたらしい。研究の事以外を考えていてこの状態になったのは初めてだった。
レイヴンも煎餅を食べる手を止め、心配そうにリタの顔を覗き込んだ。
「何かやなことでもあった? 何でも言ってよ」
「……別に」
レイヴンの事を考えてたなんて言ったらどんな反応をされるか、目に見えるようだった。
だからリタはつんと返し、同時にこういうのも久々だな、と懐かしい気持ちを覚える。
怪訝な顔をしながらそれ以上は聞こうとしなかったレイヴンは、今度は思い出したように、口を開いた。
「そーいや、なんでわざわざここまで来たのよ。 用事あったんでないの?」
「あ、忘れてた」
忘れるような用事だったのか、と呆れたレイヴンに、リタは「だからそんな大袈裟なことじゃないって言ってるじゃない」とため息混じりに返した。
重要なような、重要じゃないような。用事というより、相談――も、何か違う気がする。
そんな曖昧な事の為に本人を訪ねたのは、ジュディスの勧めがあってである。
「あたしさ、ジュディスと一緒にバウルに乗って、世界中回ってたのよ。 研究資料とかも少し持って」
「へえ、そりゃ初耳。 てか意外?」
「…勘違いしないでよ、ジュディスが寂しいって言うから一緒に居てあげたのよ」
はいはい、と言いながらにやにやするレイヴン。本気にしていない彼の態度にリタは頬が少し熱くなるのを感じた。
これ以上突っ込まれるとレイヴンを殴って黙らせかねないので、さっさと話を進める。
「まあ、それでさ。 最近まではそれなりに楽しかったんだけど…なんか、急に寂しくなっちゃって」
「何でよ」
なんでと聞かれて、リタはすぐには答えられなかった。でも、隠し事をするとこの男はしつこそうだ。
「……。 ジュディスが悪いのよ。 故郷の話なんてするから……」
故郷。
三年前、リタが失くしてしまったもの。
湿気が多く、研究施設と大量の書物しかない、とても一般人が住み着くには何かが足らない街。
それでもやっぱり、アスピオはリタが帰るべき『故郷』だった。
でも今は、空から落ちた巨大な古代建築物が街を押しつぶしてしまった。
リタには、帰る場所がなくなってしまった。たった一人になってしまった。
(跡地を見たときは、そんなに寂しいなんて思わなかったのに)
なぜ今になって、こんなに愛着がわいてしまっているんだろう。
自分のことなのに、全然わからない。自分のことだから、余計に苛々する。
「なるほどね〜。 リタもホームシックにかかる年か」
さらっと言われて恥ずかしくなったリタは、何も言えずに少し残ったスコーンを口へ運んだ。
レイヴンはリタの反応を見て優しげに微笑み、息をつく。
「帰りたいときに『故郷』がないって、なんだか寂しいわよね。 心に隙間が出来たみたいでさ」
まるで自分が経験したような言い方に、リタは首を傾げる思いだったが、今聞いたところで答えてくれる気配はなかった。
ストレートに言われてしまうと、やっぱり恥ずかしいけれど、逆に話しやすくもなった気がする。リタは新たに言葉を紡いだ。
「ジュディスも、そろそろ一つの場所に居場所を決めたらって言うから……あたしも、『故郷』探してみようかなって」
「で、見つかったの? リタの『故郷』」
リタは首をどちらに振ることもなく、ただ俯いただけだったが、レイヴンへの答えはそれで十分だった。
暫く、沈黙が続いた。さっきまでの他愛ない会話が嘘のようだ。菓子に手をつける気にもなれない。
(どこか、あたしを受け入れてくれる『故郷』を知らないかって、聞きにきたのに)
ずっと黙って難しい顔をしているレイヴンに、今話しかけるのは憚られた。
例え聞いても、期待するような返事は得られないような気がして、ちょっと怖かったのもある。
さらに時間が経ち、遠慮気味に口を開いたのは、例えようのない表情をしたレイヴンだった。
「………ここじゃ、だめ?」
「え?」
新しい、故郷。そうレイヴンが呟いた瞬間、リタは驚きに目を大きく見開いた。
落ち着け、落ち着け。何を急に。こいつは。ダングレストをって話?
しかし、開けた現実は変わらない。そんな意味じゃないというのは、よく分かっている。
予想もしなかった答えにはやる気持ちを抑え、菓子を飲み込もうとして、むせてしまった。これでは動揺しているのがあっさりレイヴンに悟られてしまう。
(でもなぜか、そんなに嫌だとは思わない)
むしろ、その提案は最初から有り得ないと蹴っていた、自分のほんの小さな期待だったのではないかと思えてくる程、心にすとんと落ちた。
そんなリタをレイヴンは、百面相になってる、と笑った。自分が提示したことがどれだけ相手に衝撃を与えているのか、こいつは理解しているのだろうか。
「顔赤いわよー。 何、そんなに俺様との新生活が楽しみなわけ?」
「……馬鹿ッ、そんなんじゃないっての!!」
からかう様なレイヴンの声に、リタは反射的に彼の頭を硬く握った拳で殴った。思い切り。
レイヴンは悲痛な悲鳴を上げ、がたんと椅子から転げ落ちる。床にしたたかに体を打った鈍い音が聞こえた。
最初は恥ずかしくて、いつもすぐ手が出てしまうけど、本当はちゃんとわかってるつもりだ。
(あっちも、寂しいんだろうな)
長い間一緒に旅をしたときに培った、物事を推測する勘は、多少のブランクをものともせずにしっかり働いた。
リタが故郷をなくして孤独なのと同じで、彼もまた、多くのものを失って、一人が寂しくなってしまったのかもしれない。
例えば、人魔戦争で失ったものなんか、特に多いということは、当事者ではないリタにも容易に想像できる。
他にも、リタより長い人生の間に様々なことがあっただろうが、そこで失ったものがきっと、一番大きいと思う。
彼はそこで、自分の心臓さえも失くしてしまったのだから。
その寂しさには、放っておくと死の世界に帰ってしまいそうな、死者への囚われが隠れているような気がして。
「ほら、隣がすっかり物置だしさ。ここは俺様一人には広すぎるのよ」
言い訳じみた言葉を言いながら、頭を押さえて起き上がったレイヴンは、儚く笑った。
そんな言葉の一つ一つに、こことは違う彼の『故郷』への――『死者』たちの元へと帰る扉が見え隠れしているようだ。
(ここで突き放したら、遠い『故郷』へ帰ってしまいそうで)
考えれば考えるほど、とても不安になった。
いつから他人の事を考えて、同情して、心配できるようになったんだろう。自分でもわからない。
でも、きっかけを与えてくれたのは何であるか、誰であるか。それは何となく想像がついた。
レイヴンもまた、不安げにリタを見つめていた。いつもと違う真面目で悲しみを帯びたその表情は、見ていて落ち着かなかった。
早くその表情を緩めてほしくて、でもその心は悟られないように、リタは小さく頷いた。そして、不敵に笑みを浮かべる。
「わかったわよ。 一緒に居てあげる。 おっさん一人じゃ色々と心配だし」
「色々って何よー。 一人暮らし暦何年だと思ってんの。 リタこそ、おっさんデリケートなんだから、大切に扱ってよ?」
子供のように唇を尖らせて、でも声音はいきいきとしているレイヴンに、リタは笑った。
こうしてふざけあっていると、心の底から安心できる。
何を感じて何を考えてこの言葉を言ったのか。それをまた感じて、考えて、言葉にして伝える。そのやり取りが、とてもとても心地よくて。
まるでいつかの旅の一場面に、『帰って』きたかのようで。
(『故郷』にいるって、こんな感じだったかしら)
すでに思い出になってしまったあの旅が、心の拠り所としてこんなにも色鮮やかに残っている。
自分でも思わなかった事実に驚き、しかし喜びを感じながら、リタは再び、甘い香りへと手を伸ばした。
(あの子はちゃんと、『帰る場所』を得られたのかしら)
大丈夫、と思っていても、やはり気になる。大小ふたつの影が映る小さな窓を、クリティア族の女性はじっと見ていた。
やがて息を一つつくと、女性は月明かりに照らされる広場へと、踵を返す。
「ここで下ろしたのは正解、だったのかしらね」
一人呟いて、人がまばらになり始めた広場を通り抜けて街の郊外へと出る。
大きな月が見下ろす草原で、女性はほぼ赤から黒へと色を変えてしまっている夜空を見上げた。
(願わくば、彼女に永遠の幸福を)
軽く瞳を閉じて、その裏に薄れかけている自分の『故郷』を思い浮かべる。
父さん、と呟くと、月明かりを遮る大きな影が落ち、友の声が聞こえた。