(ふぃー……。 あー、いい湯だったなぁ)
先ほど浴槽で多量の湯を頭からかぶせて出てきたレイヴンは、その水分を飛ばすべく、重たく湿っているぼさぼさの髪をタオルでわしゃわしゃとかき回した。
しかし、そう入念にやることもなく、適当なところでやめてしまう。自然乾燥で充分なので、それ以上やるのが面倒なのだ。
せっかく暖かい湯船でゆっくりと疲れを癒してきたばかりだというのに、わざわざ労力と疲労を増やす行為は要らないだろう。
簡単な寝巻きを着て居間へと出てくると、リタがダイニングテーブルで小さな灯りを頼りに何かを熱心に書いていた。珍しく部屋以外の場所で書類らしきものを広げているのはなぜだろう。
背中越しに声をかけてみた。
「なーに熱心にやってんの」
「ひぁっ」
小さな背中が大きく飛び跳ねて、普段の彼女からは絶対でないような甲高い声が上がった。余程驚いたのだろうか。
リタは真っ赤になって慌てて机の上の書類をかき集めて束ねてしまう。見せてくれる気はなさそうだ。リタは自分に対しては隠し事ばかりしている。少しくらい信じてくれてもいいと思うのだが。
書類を完全に片してから、リタはこちらを振り向いて近所迷惑と言う言葉を失念した声量でまくしたてた。
「ななな何やってようがあたしの勝手でしょ! いちいち干渉してこないで」
「じゃあ何でこれ見よがしにこんなところで作業してるのよー。 『ねえねえ見てみて!』って誘ってるようにしか見えんわよ」
「部屋でやる気分じゃなかっただけだから! ほんとにそれだ、け………、……?」
今にも拳を振り回してきそうなリタの勢いはしかし、そこで失速してしまった。顔は赤いままだ。じいっとこちらを見つめている。
さては湯上りのおっさんにときめいたか、と笑ったらいつも通り拳が飛んできた。おとなしくなった隙を突いたのがまずかったか。
しかし、こういうタイミングで言葉をかけたときのリタの反応がたまらなく面白いので、地雷とわかっていてもつい踏んでしまう。
「何、どしたの」
「………髪、下ろしてる」
どうやらリタの目に留まったのは顔ではなく、髪の方だったようだ。生乾きで、ぽたぽたと水滴が落ちてきそうな黒髪は確かに、今は何物にも縛られずに自然のまま晒してある。
それがどうかしたのだろうか。てっきり最近無理矢理の健康診断をされていない心臓魔導器に思うところがあったのかと踏んでいたのだが、予想外だった。
「なになに、黒髪さらさらストレートの青年の事でも思い出したの? あんなにぴちぴちの若人と比べられてもねぇ」
おっさんにゃ勝ち目ないよ、とにへらと笑う。首が少し傾いた拍子に目に髪がかかる。鬱陶しい。右手で無造作にかき上げた。
そのちょっとした挙動にますますリタの瞳は困惑の色が浮かぶ。一体何を思っているんだこの子は。天才の頭脳と勘というやつが絶賛稼動中なのだろうか。
「さっきからどーしたの。 そんなに変か?」
「変ね、すごく変」
「………、もーちっと、こう、オブラートに包むとか、さあ。 そういう事してくれないの、リタは…」
「そんな面倒なこと、する必要ないわ。 とくにあんたには」
うわ、言うねぇ。
……遠慮するほどには尊敬されてないのか、何を言っても大丈夫と信頼されているのか、微妙なラインだ。
「で、ほんとにどうしたのよ。 おっさんの頭の回転じゃあ、全然理由がわかんねーわ」
「……別に」
後に続いた一言で、拍子抜けした。
「表情の豊かなシュヴァーンって、変――とか、思っただけ」
無表情――と言うのか、馬鹿正直な子供のようにあどけない顔をして、リタはそんな感想を述べた。
ああ、そういう見方しちゃうんだ、天才ってやつは……。いや、全てを知る人間なら、当然の感想なのだろうか?
(そんな、ぱっと見で――似てるかねぇ)
髪を下ろしただけなのに。どちらも同一人物なのだから、当たり前と言えば当たり前なんだけど。
『彼』の話をするのは、苦手だ。どうしても、視線を逸らしてしまう。せめて、なんでもないようなポーカーフェイスを保てるようにはなったが。
「喜怒哀楽くらい。 やっこさんにもあったんだよ、昔は…」
あ。
違った。――そうなのだ。
自分とリタとの考えの違いに気づいて、思わず顔を見直すと、
「…昔なんて、知らないわよ、そんなの。 残酷で、冷徹なイメージしかないもの。 あたし――あたしたちには」
目を伏せてそう呟いたリタの顔は、翳っていた。痛そうに。悲しそうに。その影で歯軋りをしていてもおかしくない。らしくなく顔が歪んでいてもおかしくないほどに。
そうだ、彼女は、かつての仲間たちは、『全て』を知ってるわけじゃない。あのバクティオン神殿での、『道具としての彼』しか、彼女は知らない。だから、あの感想なのだ。
人魔戦争以前の旧知の人間は少なくとも、表情豊かな彼を見て、変、なんて感想を抱きはしないのだろう。
むしろ、無表情の彼を見て、変だ、と言うのだろう。変わってしまった、と言うのだろう。
故人の感想は既に、想像でしか補えないのだけれど。
「……そ、か」
それだけ呟くと、真夜中のひんやりとした空気を沈黙が支配した。
そこからどう会話を続けていけばいいのか、分からなかったから。沈黙に身を委ねるしかなかった。
リタの方も、神殿でのエピソードを思い出しているのか、泣きそうな顔をしている。彼女のことだから、この状況で本当に泣きはしないのだろう。その為に、ああして固く口を引き結んでいるのだろうから。
不意に、寒気がした。そういえば湯上がりだったのだ。湯冷めをしてもいけない。
しかし、このままこの子を放って置いてもいいものか。この子は一人にして置けばいつまでも目の前の感情に集中する子だ。
顔を覗き込むようにして体を屈めて、慰めてみる。
「ごめんな、変なこと思い出させて」
「……………」
今リタが口を開けば溢れるのは言葉ではなく嗚咽なのかもしれない。彼女は口を引き結んだまま、一言も発することはなかった。
やっぱ、放って置くしかないのかね。
深く息をついて、話題の原因である髪ごと頭を掻いた。そして、少し軋む床の上へ一歩、歩を進めた。そろそろ、潮時だろう。
すれ違い際に小さな肩に二回手を置いて、「あんま夜更かししないようにね」と声をかけてから、自分の寝床へと向かった。
(本当に……天才ってのは、変なこと考えるね)
ごろりと寝転がった質素なベッドの上で、俺は天井に向けてため息をついた。
この時間だと、さすがに昼ほど窓の外からの喧騒は聞こえない。だが、少し離れた酒場では今頃、遠出の仕事を終えて帰ってきたギルド連中が酒を片手に騒いでいる頃合だろう。
そういえば、暫くその手の付き合いには誘われていない。ついこの間――といっても、既に年単位だが――首領交代した天を射る矢は現在、通常運営より余程忙しいので、祝杯を交わす区切りも暇もないからだ。
もともとそんなに飲める方ではないので、過剰な量の誘いを断る手間を省いてくれる点では、この忙しさには感謝しているのだが。
同時に、ギルド関係でただでさえ忙しいのにさらに騎士団の方でも引っ張りだこで、肉体労働の激しさにそろそろゆっくりと酒が飲める時間が恋しくなってきていた。
人間、矛盾だらけなくらいが丁度いい。
なんて。
(…、リタに影響されてきてるかな)
よっこらしょ、と我ながら中年らしい台詞を吐きながら体を起こす。
そろそろ床につかないと明日に響く事になるのは目に見えているのだが、どうにも眠れなさそうだ。
最近はすっかり意識の外だった、自分が『生きていた』頃の事を思うと。
もう、『死んだ者』だと――割り切ったはずなのに。
いつまでも未練がましく、過去の――極々短かった、彼女――彼女達との幸せな――独りよがりな――今にして思えば半生の中で一番平和だった――ひと時を。
棺桶の中に入れて、背中に背負って引きずっている。
(……………………………)
もう、無理矢理でも目ぇ閉じちまえ。
これ以上、何かが浮き彫りになる前に。
「………ぶえっくしゅ」
次に自分の耳に届いた声は、自分の盛大なくしゃみだった。リタの引きこもっている部屋にも届いただろう。
窓の外を見やろうとしたが、あまりに眩しくてやめた。いつのまにか、辺りはすっかり陽の光に包まれている。
あれほど静かだった窓の外もまた、いつもの喧騒を取り戻して、窓にはまっているガラスを震わしていた。
ずび、と鼻を啜って、大欠伸をしながら寝床から這い出た。体が重い。寝て起きたら急に重力が三倍になったかのようだ。
(…リタに朝飯、作ってやらんと)
裸足でぺたぺたとゆっくり歩き、キッチンへ向かおうとしたが、部屋を出る所で足がもつれてふらついた。派手な音を立てて床に倒れこんでしまう。
おかしい……やはり何かがおかしい。
最近は酒もろくに飲んでいないのに何故こんなに体調が悪いのか、と鈍く痛む頭で考えながら右手を額に当て――
(……………ああ、)
それで全て合点がいってしまった。
瞬きをしたと思ったら自分の身体は再び自分の部屋へ舞い戻り、ベッドの上で仰向けにされて、上から分厚い毛布を掛けられていた。窓の外の太陽の位置が、瞬きをする前よりずいぶん変わっていた。
身体と毛布の重さで手も足もろくに動かないので、首だけやっと右へ回す。額に乗せられていたらしき生温い手ぬぐいが滑り落ち、視界を塞いだ。
すかさず、ようやく見慣れてきた、まだまだ小さな手が伸びてくる。
「やっと気づいた。 もう、朝から心配させないでよね」
ベッド脇の椅子に腰掛けたリタが手ぬぐいを取り上げながら、不機嫌な――いや、この無表情はいつもか――様子でそう言った。
朦朧とした頭で、ここまでリタだけで運んできたのか、と不思議に思う。
「………なに、心配してくれたの? 珍しいねぇ」
「えっ、あ、な、何よ。 悪い?」
くっくと力の入らない表情筋で顔を歪めると、リタは耳まで赤くなりながらも思いのほか素直な返事を寄越した。こちらが病人だから、手を上げようにもあげられないのだろう。
こういうときに図に乗れるだけ乗っておくのも楽しそうだが、如何せんからかう語彙が頭に巡ってこない。熱も割と低そうなのにこの有様なのは、やはり年なのか。
「昨日の夜、あんたが変なこと言うから、罰が当たったのよ、きっと」
「平熱よりちょっと高いくらいの体温で罰ねえ…」
苦笑するような口調で呟くと、リタは眉をひそめながら目を見開いて――器用な真似をするな――口角泡を飛ばした。
「何言ってんの、十分高熱よ! 自分の身体くらい大事にしなさいよっ!」
言ってから真っ赤になって気恥ずかしそうに思い切りそっぽ向くんだろうなと思う前に、やってしまったという顔の後でリタの行動はそのとおりになった。
これが、この子なりの他人の心配の仕方なのだ。それを知っているから、自分は病に冒されながらも余裕の笑みを保っていられる。
ユーリ達が出会った当初は相当酷く冷たくあしらわれていたらしいから、こうして思うことを無意識に、素直に口に出来るようになったのは間違いなく成長だ。
「ただでさえイレギュラーな身体なんだから…。 魔導器に何か影響が及んだらどうすんのよ」
…自分に対する場合は、未だ七割くらいは“魔導器の心配”をしているのだが。
ひいては“生身”の生命を心配している――ということにしておこう、と最近では半ば諦めているのだった。
(この子と魔導器は、切っても切れない関係みたいだしねぇ)
魔核が世界から消え去り、従来の魔導器が全く機能しなくなった今でも、彼女の魔導器研究は続いている。魔核の代わりとなる新たなエネルギーと、それを使う従来魔導器の代替品の発見、開発。
自分の掛け持ち業務とどちらが忙しいかは五分だろうが、新鮮味、楽しさはリタの研究の方が断然上だろうということは容易に想像できる。今でも魔導器に名前をつける癖は活かされているのだろうか。発見した新エネルギーが、あの可愛らしい名前たちの右に並んでいくのかもしれない。
少し動かすのも億劫な表情筋を何とか歪ませて、半笑いで息をついた。
「ああ、はい、わかりましたって、無茶せんけりゃ良いんでしょ」
「その声の調子は信用できない」
「リタが信用してくれないのはいつもじゃないの……」
「あんたが日頃そう思わざるを得ない行動しか取らないからでしょ」
「そんな…ぶえっきし」
楽しい会話は不躾なくしゃみにより止まった。眉間に皺を寄せて、会話を諦めた。
「……ん、ほら、俺のことはもういいから。 リタは研究の続きでもしてらっしゃいな」
「何よ急に」
予想に反して不満げな声が返ってきた。彼女も会話の続きを待っていたのだろうか。
…いや、そんな展開は夢の中だけで充分だ。
「これ以上ここにいたら、風邪うつっちゃうわよ。 そうなったら申し訳ないし」
子供を追い払うように力なく手で空を払う。子ども扱いするなとでも反論が来るのだろう。
ゆっくり目を閉じて、次に上がる大声に備えると同時に、睡眠体勢に入ろうとした。
…………………。
…………。
(………………ん……?)
しかし、いくら待てども声は聞こえない。かといって、目の前の気配が消えた様子もない。
まさかもう夢の中に落ちたのか。半信半疑で目を開けると――リタはまだそこに居た。俯き加減のその顔には、何故だか――落胆の表情。
「え、あの……なんかまずいこと言った?」
「……………」
自信家のリタが落ち込むのは余程の事がないとありえない。知らず知らずのうちに、何か大きな失言をしてしまったのかもしれない。
しかし――心当たりが全くない。
病気よりも、リタの表情ひとつの方が体調に影響を及ぼしていそうだ。
「…………あたし、」
不安を吹き飛ばしたのは、ぽつりとこぼしたリタの言葉だった。
「……」
「………」
しかし、その後が続かない。リタの表情は依然、思い詰めたままだ。
ここで「なんでもない」とか言わせて会話を切られたら、終わりだ。
何が終わるのか良くわからないが、とにかく話の糸を手放しては駄目だと直感で思った。
辛抱強く、待つ。あまり長く空気を共有していると、本当に風邪をうつしてしまいかねないのだが、ここで下手に声をかけたら、それは糸電話の糸に入れる鋏と同じだ。
「……ここに」
とうとう表情が見えないほど顔に影を落としたリタは暫くして、意を決したように切り出した。
「ここに、居場所もらったし」
回転が鈍くなっている頭では、指示語の示す先がどこかを理解するのにも戸惑う。
それでも、ちゃんと話を聞いてやる。
睡魔で意識が飛ばないように、一世一代の告白でもするような珍しい態度のリタの言葉を聞き漏らさないように。
「お菓子ももらったし、朝ごはんとか、食器とか、ペンダント、とか」
首元がきらりと三色に光る。
リタは視線を床に射したままゆっくり小さく単語を並べていたが、だんだん早口になって、単語の弾丸連射が終わってもしかし顔は上がらない。
さいごに、ぽつんと。
「……あたし、もらってばっかり」
役たたず。
そう、呟いた。
頭の中にかかっていた重たい霧が、さあっと晴れていくような気がした。
「こんな時くらい、あたしに何かやらせてよ。 もらいっぱなしだと、なんか、むしゃくしゃすんのよ」
あの生粋の出不精が。
あんなに他人と干渉するのを嫌っていた子が。
言い方こそ、さっきまでの殊勝さはどこへ霧散したと思わせるくらい普段の調子だったが。
全部言わせた責任は重いわよ、とでも言うように真っ赤な顔で恨みのこもった三白眼をまっすぐ向けてくる。
優しい、恨みだった。
「……三年経って、結構丸くなったもんだわね」
上手く力の入らない腕にありったけの精根を込めてようやく持ち上げ、くしゃくしゃとリタの変わらない栗毛をかき回すと、うっさい馬鹿と口では罵倒しながらその行為を払いのけず享受している彼女がいた。
なんだか、気難しい猫を飼いならした気分。
などと言ったら、彼女は猫よろしく噛み付いてくるのか、それとも引っ掻いてくるのか。
「…ずっと一人だったおっさんには、傍に居てくれる人が居るだけで大助かりよ」
そう言って、こっそりお粥を作ってくるような事態を封じてみようと試みたが、果たして上手く伝わったのかどうか。
(料理の方も、少しは上手くなってるのかね)
心地よい闇に落ちる前に二つかけた願いという名の期待が、ことごとく打ち破られてしまうのを知るのは、次に目を覚ました時だった。