パスカルさんの様子がおかしい。

 …いや、おかしいのはいつものことなのだが、どうもさっきから移動中も戦闘中も頭をふらつかせてどこかぼーっとしている。



「パスカル、後ろ!」



 そんな兄さんの声が飛んでも、「ふぇ?」と間の抜けた返事をするだけで、背後に迫り来る魔物の存在に気づきもしない。

 悪態をつきながら今日何度目かのフォローに回るのはいつも僕だ。両剣を手の中で一閃。魔物が勢いに退いたその間合いを縫う様に双銃で追い討ちをかける。

 がちん、と銃を収めたあとにようやく、彼女は自分の置かれていた状況に気づくのだ。



「ありがと〜、弟くん。 悪いね〜」

「全くですよ。 ……今日はいつにも増して目が離せない。 どうかしたんですか?」



 悪気のない笑顔にもどこか覇気がない。しかし本人はそんなことは露ほどにも気にしていないようで、「何が?」と聞き返してきた。

 僕はため息をついて、「もういいです」と背を向けた。全くこの人は。

















 パスカルさんが倒れたのは、その直後だった。

















 僕達は揺すってもぴくりともしないパスカルさんを背負って、近くの宿屋に駆け込んだ。



「パスカル、どうしちゃったのかな」

「倒れるまで無理すること無いのに……」



 ソフィもシェリアも心配そうだ。マリクさんに様子を見に行かせて、僕達は宿のロビーで頭をたれていた。

 パスカルさん一人いないだけで、ここまで意気消沈とした空気になってしまうと、余計に寂しさを感じさせる。

 最近の行軍に疲れが出るような無理があったとも思えない。結構な余裕を持って組まれた旅程の筈だった。

 とすれば、どこか僕の知らないところで何らかの病を患ったのだろうか。本人も自覚しないような病気を…?

 病に限らず、怪我という可能性もある。風呂に入る習慣が無いようだから、傷が沁みて自覚するということも少ない筈だ。

 ……倒れてから結構な時間が経過した気がする。まだ回復したという知らせはおりて来ない。

 掛け時計の針が進む音に、心はなぜか不安になるばかりだ。



「……あの人は一体、どこまで迷惑をかければ気が済むんですか…っ」



 ぎりり、と拳を固めて、机でも殴りたい衝動に駆られた。いらいらする。何に?

 僕の予想できない行動をとる彼女に。それとも、こんな肝心なときに何も出来ない自分に?



「ヒューバート? どこ行くんだよ」



 ソファから腰を浮かした僕に、兄さんが不安げに声をかけた。僕は眉間に皺がよるのを感じながら、首だけ兄さんに向け、



「……様子を見に行くだけです」



 それだけ告げて直ぐに前へ向き直り、パスカルさんの寝ている部屋へと続く階段に足をかけた。

 一歩踏むたびに不安げに軋む音を立てる階段を早足で上がり、薄暗い廊下を進むと、部屋の前にはちょうど部屋から出てきたらしいマリクさんがいた。

 彼もこちらに気づき、「どうしたんだ」と訝しげな顔をする。僕が来たのがそんなに意外だったか。



「報告が遅いので、少し様子を見に来ただけです。 中に入っても?」

「ああ、それは構わないが……しかし、まだ眠っているぞ」



 まだ目が覚めていないのか。理由は何であれ余程の重症なのかもしれない。まさかこのまま目覚めないなんて事は…。

 いてもたってもいられなくなって、僕は扉を押し開け中に飛び込んだ。マリクさんは入ってこない。これから下に状況を伝えに行くところだったのだろう。

 整った部屋の奥にあるベッドに、彼女は寝かせられていた。調子が悪いなんて嘘のように、何のことはなく目を閉じて横たわっている。

 扉も窓も閉め切られた静か過ぎるこの部屋の中だと、まるで生きた心地がしない。不安に心をかきむしられて、思わず声をかけた。



「パスカルさん?」



 声をかけても当然、返事は無い。

 …………筈だった。



「……………ん、あふ。 あれ、弟くんじゃん」



 今しがたまで生きた心地をさせなかった彼女がぱっちり目を開け、嫌にすっきりした表情で起き上がってくればそれは驚くだろう。

 しかも、そのあとに大欠伸をして、挙句「ほあぁ〜、久々によく寝た〜」とぬかすのだ。

 一気に緊張の糸が解け、あまりに急に体の力が抜けたのでその場に膝をつきそうになった。



「ま……まさか、パスカルさん。 寝不足だったんですか?」

「そーなんだよねぇ。 いや、最近モノ作り始めたら止まらなくってさ。 睡眠時間削るしかないじゃん」



 研究のために徹夜したというのか。しかもその後の話を聞いてみれば、ここ最近連日で繰り返していたらしい。

 すっかり元に戻った快活な笑みには、反省の様子は微塵も感じさせない。彼女にとっては日常茶飯事な事なのかも知れないが…。

 さっきまで抱いていた不安は瞬時に呆れに変わり、怒りとなって口から吐き出した。



「………驚かさないでください! 一体どれだけ心配したと思っているんですか…っ」



 その時の頬の紅潮は、怒りで頭に血が上ったのか、はたまた思わず飛び出した台詞への自己嫌悪か。

 言われた彼女は目を見開いて、少しの硬直の後には柔らかい笑顔を見せた。



「……心配してくれてたの? ありがと」

「なっ、ぼ、僕は別に……」



 今言ったばっかじゃーん、とにやにやしているパスカルさんを見ると、勢いで言葉は紡ぐものじゃないと改めて再認識する。

 しかし、彼女の屈託無い幸せそうな笑顔を見ると、何故か毒気が抜かれてしまう。

 それでも慣れない感謝の言葉はやっぱり恥ずかしくて、頬の熱を隠すように眼鏡の弦を押さえ、ぷいと目を逸らした。



「……と、とにかくっ。 これからは、あまり無理はしないでくださいよ。 睡眠もしっかり取って…」

「えぇー。 でもこういうのって、思いついた瞬間のノリが必要不可欠って言うか」

「夜はちゃんと深い眠りについて、一日の疲れを取る時間だといっているんです!! また倒れられても困りますっ」



 思わずの怒鳴り声に大げさに肩を震わせながら、わかったわかったと説得力のない顔で頷くパスカルさんに、僕は額を押さえてやれやれと深いため息を吐いた。

 …そこで感情のクールダウンをしたというのに、静まりかけた火に油を注ぐこの一言。



「また弟くんに心配かけても悪いしねっ」



 何の悪気も無くそう言うのだから、余計に困りものである。

 不意打ちに動揺して勢い余って声が裏返りそうになりながらも、必死に否定した。



「か…勘違いしないでくださいっ。 僕は、これ以上旅程が遅れるのを心配しているんです!」



 知ってる知ってる、と口では言いながらも、パスカルさんはにやにやしたままだ。

 これ以上否定するのも馬鹿馬鹿しくなって、僕は元気に手を振るパスカルさんに背を向け、部屋を出た。

 廊下に出て、後ろ手に閉めた扉に背を預けて、息を吐く。それでようやく気持ちが落ち着いた。

 口ではいろいろ言ってしまうが、心の隅ではきちんと気持ちは決まっている。



(………良かった)



















 階段を下る途中、兄さんとすれ違う。



「ヒューバート、パスカルはただ寝ているだけだって教官が言ってたけど……」



 最初から何とも無いならそう言ってくれればよかったのに、しかし気づいていて言わないのはあの人のいつもの行動だ。

 再びため息を吐いて、事の次第を手短に告げると、兄さんはほっと顔をほころばせた。



「パスカル、何とも無くて良かったな、ヒューバート」

「……べ、別に僕は、最初から心配などしてませんからっ。 人騒がせなだけですよ、全く!」



 僕の過剰であろう反応に首を傾げる兄さんにも悪気はないのはわかっている。しかし、どうも動揺を隠すことが出来ない。

 せめて頬に差した赤色にだけは気づかれまいと、眼鏡を弦を抑えながら階段を駆け下りた。