があ、と醜い声が鳴く。でもそれは、御伽噺のようなアヒルではなくて、美しい黒で彩られた、鴉のそれ。

 鳴いた方角を、読んでいた本を閉じて首だけで振り向けば、そこには視界いっぱいの夕陽と、その景色に映える紫の上着。

 件の鴉がその髪から現れ、巣立っていったように見えるほどに深い色の、黒、だった。

 黒髪の下に覗く、無言で烏を見送る表情は、年相応の哀愁、といったところか。

 でも、彼にとってだけは、年相応の哀愁も性格不相応だった。知った人間にとっては、少し不快を覚える顔。

 自分もそのひとりだと認識しつつ、柔らかい草地から立ち上がり、彼の立ち尽くしている崖上までゆっくり歩いていった。

 やがて彼の隣まで辿り着き、彼がこちらに気付く。とたん嬉しそうな顔をするのは、


(やっぱ、おっさんはおっさんだわ)


 哀愁なんて嘘っぱち。

 ただの見せ掛け。

 対してこちらは、彼の期待に副わず冷たい態度で接する。


「…何やってんのよ、一人で。 無駄に哀愁漂ってるわよ」


 似合わない、と一言付け足すのももちろん怠らない。

 言おうが言うまいが、彼の返答は決まっているも同然なのだが、自分の気持ちは無駄に正直だ。


「リタっちこそ何の用よ。 …あ、おっさんのことが心配で、ついてきたとか?」

「違う、散歩」


 誤解を生まないよう、即座に否定。

 彼はいつでもポジティブシンキング。そこがまた、うっとうしい。

 何でこんな人に気に入られてしまったのだろう、と自問自答したくなる時もある。

 でも何故か、嫌悪を感じつつ、それでいて横に居ないと安心できない。声を聞かないと、不安だったり。

 そんな自分にも、結局嫌悪したりして。そして思考はその原因にまた回帰、エンドレスリピート。


(ああ、もう)


 無性に苛々する。彼のことを考えると。

 理由がどんな感情からくるのか、自分でもわかってない、だから余計に苛々する。

 返答を焦らす、目の前の彼にも苛々は募る。

 無意識に術式を唱えると、彼は大袈裟に身体を振りながら慌てて「答えるから、答えるから魔術は勘弁!」と叫んだ。

 仕方が無いので、詠唱を中断する。ここで歯止めが利くうちはまだ、自分は大丈夫。

 彼はあからさまにほっとしながら、右手で頭をかいて、答えた。


「鴉とお話してたのよ」


 …答えた、と思えばとんちんかんな返答。思わず、はあ?と聞き返したくなる。

 コレがまた面白い奴でだな、と思い出話を語り始める前に、黙らせてやろうかと思った。

 でも、苦笑いで呟いた次の言葉を聞いて、気が変わった。


「もうちっと話してたかったんだけど、まあ、アイツもずっと俺に構ってるほど暇じゃないらしくてさ」


 ………。


(ずっと一緒には、居られない)


 生きている限り、出会い、そして別れは必然。科学でなくとも分かる図式だ。

 出会いは嬉しいもので、しかし別れは悲しくも、嬉しくもある。初対面と、その後そりが合うか合わないかの違いだ。


(それはきっと、人間も、動物も、一緒)


 なのだろう、というのは自己論。彼から先ほど感じた哀愁も、そこに関連しているのかもしれない。

 ふうん、と気のない返事をしておいて、彼の隣に座り込む。彼もまた、その場に胡坐をかいた。

 座っている近辺を見れば、先刻飛び立った鴉のものであろう漆黒の羽根が数枚ちらばっていた。


「その返事はリタっち、俺様の言うこと信じちゃいねぇな? なんなら、リタっちとも話すようにおっさん頼んでみるけど」


 コツはしっかりレクチャーするよ、と自慢げに語る彼には見向きもせず、馬鹿らしいと呟いて、手の平の下に落ちていた鴉の羽根を一つ、手に取った。

 彼が手放した鴉の後ろ姿が、鴉を逃がした彼の指先が、脳裏に浮かぶ。

 鴉はあの時、何故彼の元を去ったのだろうか。――否、彼との対話より、重要な用事があったのだろう、とは、容易に想像がつく。

 何せ相手は人間ではない、弱肉強食の世界を生きるもの。


(あたしだったら)


 それが大切な人であれば、どんな魔導器の研究を依頼されていようとも全て断り、その人とともに過ごす。

 ――絶対とは言い切れないし、それが彼だとは、誰も言ってないけど。

 でも、それが人間だ。縛られる義務より、心を満たす行為を優先する。

 じゃあ、


「おっさんは」


 どうなんだろう。思わず出た声に反応して、首を傾げてどーした、と聞いてくるこの人は。


「鴉みたいな、薄情じゃないわよね」

「…急に何言い出すの、リタっち」


 状況がつかめていない彼。当たり前だ。

 あたしの言うことを、断片的な情報で正しく理解する方がおかしいんだから。

 だから、急に込み上げて来た恥ずかしさを堪えて、探究心を満たす。


「あたしを置いて、どこかに行ったりしないよね」


 座ってても届かない背を象徴する様に、どうしても上目遣いになる。彼の顔は今、驚きで満たされていた。

 一陣の風が吹き、辺りの鴉の羽根を乗せて海へと旅立たせていく。

 降りた沈黙に、だんだん自分の顔が火照ってくるのがありありと伝わって、思わず顔を伏せた。


(…何言っちゃったんだろあたし)


 これでは、ずっとそばにいてほしい、と言ってるのと同じことだ――と、気付くのが遅すぎた。

 彼の反応を見るのも耐え難い。このまま海に飛び込みたいくらい。

 でも、やっぱり心には勝てなくて。

 おそるおそる顔を上げて、彼の様子を見る。すると、彼は驚きで固まっていた表情を優しい笑みに変えた。

 そして、頭に人肌が伝わった。彼が撫でているのだ。


「もちのろんともさ」


 彼は、はっきりと言った。


「どこまで行っても必ず、俺はリタっちの元へ帰ってくるよ」


 その言葉に、約束する、と付け加えた彼。

 似合わない。

 果てしなく、彼に似合わない台詞。

 でも何故か、あたしの心は意外なほど安心感に満たされてて。

 あまりに意外すぎて、素直じゃないあたしの口はこういう時にはきつい言葉ばかり紡ぐ。


「……嘘だったら、ファイアーボール百連発の刑だから」

「おうさ。 ………その刑はちと老体には刺激が強すぎるから、絶対に罰せられないようにするわ」


 肯定の後の言葉はふざけて言ったのか真面目なのか。

 今のあたしにはそんなことどうでもよくて。


(本当に、この約束を守ってくれるの)


 そこだけが、とても重要で。

 いつもは信憑性皆無な行動しかしないけど、でもこの約束だけは、きちんと守ってくれる気がした。

 あたしのためだけに。


(……………)


 あたしの、ために。


「いやー、しかしリタっちがそこまで俺様のこと好きだったとは」

「は……そ、そんなこと誰も言ってないでしょうが!」


 …こうやって混ぜっ返さなければ、最初から素直に信じてあげられるのに。

 でも、これでこそ彼である気もして。

 逆にこうしてくれなければ、さっきまでの雰囲気から逃げ出せなくて困っただろうとも考えると、これも彼の一種の優しさなのだろうと取れる。

 可愛い、抱きしめたい!そんな台詞を、堂々と連発して。あたしは段々平常心を取り戻すと同時に、怒りと恥ずかしさが混じって声がでなくなった。

 だから、こう呟くしかない。そして、こう言うのが、この場にとって最良だと思えた。





「…何言ってんのよ。 ……ばか」